これまで見てきた後期から終末期の古墳は、現在のところ以下のような順序で築造されたと考えられる。大槻町麦塚古墳→守山城三ノ丸1号墳→安積町渕の上1号墳→蝦夷穴横穴墓群→大槻古墳群→蒲倉古墳群である。
古墳の内容が不明なものがあるものの、後期までに造られた大和政権との連合を示す記念物の前方後円墳はなくなり、古墳の主が影響力を持っていた領域は、7世紀後半以降の律令による中央集権的な行政区画である評(こおり)や郡(こおり)に受け継がれていく。
(柳沼賢治)
3 古墳時代から律令時代へ
これまで見てきた後期から終末期の古墳は、現在のところ以下のような順序で築造されたと考えられる。大槻町麦塚古墳→守山城三ノ丸1号墳→安積町渕の上1号墳→蝦夷穴横穴墓群→大槻古墳群→蒲倉古墳群である。
古墳の内容が不明なものがあるものの、後期までに造られた大和政権との連合を示す記念物の前方後円墳はなくなり、古墳の主が影響力を持っていた領域は、7世紀後半以降の律令による中央集権的な行政区画である評(こおり)や郡(こおり)に受け継がれていく。