地域において、最も基本的な行政単位となるのは郡である。奈良・平安時代には、その郡ごとに役所が置かれていた。郡の役所のことを、専門郡家(ぐうけ)や郡衙(ぐんが)と呼ぶ。どちらが正しいということはないが、本項では、同時代の史料にもみられる郡家の語を用いる。
安積郡の郡家は、現在の郡山市清水台から虎丸町・赤木町に広がる清水台遺跡(しみずだいいせき)と考えられている。清水台遺跡では、1964(昭和39)年から2013(平成25)年までの間に、55地点で発掘調査が行なわれた。一地点の調査面積は小さいのだが、その積み重ねによって、1万3,000平方メートルを超える面積が発掘された。その結果、大きな成果が得られるとともに、課題も明らかになってきている。
先ず成果として、次の4点が上げられる。①瓦や土器といった出土遺物の年代観によって、清水台遺跡の機能していた年代が、7世紀末頃から10世紀中頃であることが判明したこと。②掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の向きが、方位から40~50度斜めに傾くものと、方位とほぼ一致するものとがあり、多くの場合、8世紀前半に前者から後者へ変化していること。③「厨」と墨書された土器が集中的に出土する平安時代の遺構群が見つかり、郡家の厨家(くりや)と推定できること。④瓦が特に集中して出土する範囲が判明したこと。
①と②は、清水台遺跡の全体像に関わる事柄である。①は、一般的に考えられている郡家の継続年代と一致する内容であり、②は、評制(こおりせい)から郡制(ぐんせい)への移行を反映する変化と評価されている。すなわち、郡制の施行にともない、建物の向きが方位と一致するものに変えられた可能性がある。
③と④は、清水台遺跡の個別的な内容に関わる事柄である。郡家は、郡庁(ぐんちょう)・正倉(しょうそう)・館(たち)・厨家(くりや)などから成る。郡庁は、郡の役人が政治や儀式を行なった場所で、広場を囲うように掘立柱建物が配置され、敷地は50m四方ぐらいであることが多い。正倉は、住民から税として集めた稲を収めた倉庫で、構造や規模にいくつかのタイプがあり、それらが一定の間隔で並んでいた。館は、国の上級役人である国司(こくし)が国内を巡回する際の宿泊所や、郡の上級役人である郡司(ぐんじ)の宿所として使われた施設。厨家は、国司などの宿泊者や郡の役人に、食事を供給するための施設。清水台遺跡では、これらのうちの厨家の位置が判明したのである。④の瓦が集中する場所は、清水台遺跡の中で特殊な位置にあることは確かなのだが、具体的にどのような役割を担った施設が存在したかは判明していない。
次に課題として、次の3点が挙げられる。⑤ある程度の面積を発掘しているにも関わらず、郡庁・正倉・館の位置が判明していないこと。⑥これまでに見つかっている掘立柱建物の規模や構造が、他の地域の郡家とみられる遺跡から見つかった遺構と比較して貧弱であること。⑦瓦の出土量が多く、清水台遺跡には総瓦葺(そうかわらぶき)の建物の存在が想定できるが、郡家では板葺きや部分的に瓦を葺く建物が一般的で、総瓦葺の建物は特殊であること。
⑤と⑥は関連する事柄で、郡家を特徴付ける施設である郡庁や正倉が見つかっていないため、掘立柱建物の規模や構造が貧弱であるとも考えられる。しかし⑦は、瓦が集中的に出土している場所が、郡家とは異質な場所であった可能性を示しかねない内容である。総瓦葺の建物として先ず思い浮かぶのは寺院である。瓦が集中的にみつかる場所の近くには、かつて基壇状(きだんじょう)の高まりがあったとの記録もある。基壇とは、堂や塔の基礎となる土台のことで、寺院に見られる構築物である。基壇の上には礎石(そせき)が据えられ、建物はその上に建てられる。開発などによって基壇が削られれば、当然のことながら礎石は動かされ、失われる。また、朱(しゅ)の付着した軒瓦(のきがわら)が出土していることも問題を提起する。朱の付着は柱が朱塗(しゅぬ)りであったことを示すが、朱塗りの柱は寺院では一般的だが、郡家では珍しいからである。
清水台遺跡はかつて、清水台廃寺(はいじ)と呼ばれていた。古代の寺院跡と考えられていたのだが、各地の発掘調査成果を踏まえ、1975(昭和50)年頃から安積郡家と評価されるようになり、遺跡名が清水台遺跡に改められた。
しかし、郡家に近接して寺院が存在するのは一般的な現象である。このような寺院は郡寺(ぐんでら)と呼ばれることが多く、安積郡にも存在したはずである。清水台遺跡についても、郡家か寺院かといった具合に二者択一的に評価するのではなく、両者を総体として把握する必要がある。
また、正倉の位置を考えるに際して興味深いのは、清水台遺跡の南側に当たる高台にかつて存在した「力持(ちからもち)」という字名(あざめい)の辺りで、焼米が掘り出されたとの記録があることである。安積郡の事例ではないが、正倉の火災を伝える記録や、実際に焼米が出土した郡家の遺跡も少なくない。安積郡家の実像を解明するには、清水台遺跡の範囲に捉われることなく、周辺にも十分な注意を払う必要がある。
〈参考文献〉
郡山市教育委員会編『清水台廃寺』 郡山市教育委員会 1966年
郡山市文化・学び振興公社編『清水台遺跡 総括報告2006』 郡山市教育委員会 2007年
郡山市文化・学び振興公社編『清水台遺跡と古代の郡山』 郡山市教育委員会 2008年