奈良・平安時代の行政区画は、国・郡・里(715〔霊亀(れいき)〕元〕年に郷と改称、以下では郷と表記)からなる。これらのうち、地域の基本的な単位として重い意味を持ったのが郡である。ただし郡は、時期により名称や範囲に違いがある。奈良・平安時代の郡につながる最初の行政区画は、阿尺国造(あさかこくぞう)の管轄した国である。この国は、大化改新に伴う地方行政制度の改革により、評(こおり)という区画に再編される。阿尺国造の国は、阿尺評になった。その年代は諸説あるものの、649(大化(たいか)5)年とする見解が、近年は有力である。
阿尺評の範囲は明確にできないが、今日の郡山市・田村市・田村郡・二本松市・本宮市・安達郡の範囲を含んでいたことは間違いない。会津地方に国造の存在が認められないことを重視し、同地方が阿尺評に含まれていたとする見解もある。この説では、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』にみられる653(白雉(はくち)4)年の地方行政区画再編の記事を踏まえ、阿尺評から会津評が分出したと解釈する。その正否については意見が分かれるだろうが、仮にこの見解に従えば、阿尺評はかなり広大な領域を管轄したことになる。
阿尺評の範囲が広大であれば、領域内には複数の有力豪族が存在したはずである。実際に、前時代に築かれた古墳の集中する場所が、領域内に複数ある。中通り地方では、現在の郡山市田村町(下図C)、同じく安積町から大槻町周辺(同B)、本宮市と大玉村の境界付近(同A)という具合に3ヵ所あり、会津地方にも、会津若松市の東部(同F)、喜多方市の南部(同E)、会津坂下町周辺(同D)と3ヵ所ある。これらの地域を本拠とした有力豪族の子孫が、評制の時代にも存在したと考えるのが自然である。
評の長官は督、次官は助督と呼ばれたらしい。督や助督は有力豪族から任命されたから、評の領域に多くの有力豪族が存在したとなれば、彼らは競合関係にあったと考えられる。阿尺評から会津評が分出した背景には、地理的な理由とともに、有力豪族層の思惑も働いていた可能性がある。
その後、701(大宝(たいほう)元)年に制定され、翌年施行された大宝律令(たいほうりつりょう)によって、行政区画が評から郡に改められ、阿尺評は阿尺郡になる。郡の長官は大領(たいりょう)、次官は少領(しょうりょう)で、督や助督と同じく、郡内の有力豪族から任命された。阿尺郡が安積郡と表記されるようになるのは、713(和銅(わどう)6)年に行政地名の改正が命じられてからである。郷は郡の下に設定された行政の単位で、この郷の数の多少によって、郡の等級が定められた。
この時点の安積郡は、今日の郡山市・田村市・田村郡・二本松市・本宮市・安達郡の範囲におおむね相当する、と考えるのが一般的である。ところが近年、このような考えに再検討を迫る木簡が、宮城県多賀城市の市川橋遺跡から出土した。問題の木簡には、「安積郡長江郷」と記されていた。長江郷(ながえごう)は、現在の大沼郡南会津町下郷付近に存在したとみられる郷である。平安時代中期の『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)』には、長江郷は会津郡の管轄とされており、木簡の記述とは矛盾する。そこで、『和名類聚抄』の成立以前のある時期までは、長江郷は安積郡に含まれていたとする見解が提示された。その場合、安積郡の範囲は現在の会津地方の南東部にまで広がっていたことになる。ただし、この新見解には否定的な意見もある。
906(延喜(えんぎ)6)年、安達郡が成立する。安達郡の範囲は、現在の二本松市・本宮市・安達郡におおむね相当するから、安積郡の北部の地域を割いて、安達郡は置かれたことになる。残った安積郡の範囲は、現在の郡山市・田村市・田村郡におおむね相当する範囲である。
安積郡の範囲は、その後さらに縮小する。その時期は定かでないものの、各地に荘園が成立する流れのなかで、11~12世紀頃に、安積郡の阿武隈川東岸の地域が、田村荘として分出したとみられる。この分出は、田村荘としてではなく、田村郡として行なわれ、後に田村郡が田村荘になったとする見解もある。また、田村荘(郡)成立の前後もしくは同時に、小野郷が小野保になる。保(ほう)とは、特定の役所に税を提供するために設定された行政の単位である。このように安積郡は、最終的には現在の郡山市の西部におおむね相当する範囲にまで縮小する。この安積郡の範囲が、中世以降も行政区画として維持され、近代に郡山市が成立するまで継続する。古代末期に成立したこの安積郡の範囲は、行政区画としての安定性が高かったと評価できる。
行政区画分割の問題を考える上で見逃せないのは、分割して成立した領域には、それぞれ古墳が集中して造営された場所が含まれる事実である。そこには有力豪族の存在が想定でき、行政区画の分割と、有力豪族層との関連がうかがえる。
〈参考文献〉
垣内和孝『郡と集落の古代地域史』 岩田書院 2008年
郡山市編『郡山市史』第一巻 郡山市 1975年
郡山市編『郡山市史』第八巻 郡山市 1973年
鈴木孝行「市川橋遺跡出土木簡」『考古学ジャーナル』五二五号 2005年