郡の上級役人である郡司(ぐんじ)に任命されたのは、かつて古墳に葬(ほうむ)られた豪族の子孫が多かった。中央の政府は、郡内に伝統的な影響力を持つ彼らを郡司に起用することによって、地方の支配を円滑に進めようとしたのである。『続日本紀(しょくにほんぎ)』を始めとする国の正史(せいし)(国史)に、数は少ないながらも安積郡の豪族が登場する。下の表に示したように、10事例で9人が記録されている。
769(神護景雲(じんごけいうん)3)年の丈部直継足(はせつかべのあたいつぐたり)は、阿倍安積臣(あべのあさかのおみ)の姓を与えられている。彼は、「安積郡人」と呼ばれているように、官職は持っていなかった。しかし、外従七位下(げのじゅしちいのげ)の位階(いかい)は有している。地方在住で位階を有している者は少数であり、彼は郡を代表する豪族であったと考えられる。継足が、直(あたい)というカバネを有していたことも、それを傍証する。カバネは身分を表し、農民層は基本的には持っていなかった。しかも直のカバネは、かつて国造(こくぞう)であった豪族が称していることが多く、継足が阿尺国造(あさかこくぞう)の子孫であったことをうかがわせる。
ただし、位階は「外」の文字が付く外位(げい)である。外位は、主に地方豪族に与えられる位階で、中央の貴族や官人に与えられた「外」字の付かない内位(ないい)とは区別された。中央と地方との格差を示すものと理解してもいいだろう。丈部直継足は、安積郡を代表するような有力豪族ではあったけれども、地方豪族として、中央の貴族や官人からは区別されていたのである。
新しく与えられた阿倍安積臣の姓のうち、臣(おみ)はカバネである。臣は、中央の官人等も称するカバネだが、下位に位置付けられている。姓に阿倍という中央の豪族名が含まれていることは、中央との繋がりが、地方において重い意味を持っていたことをうかがわせる。
内位 | 外位 | 安積郡の古代豪族 |
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正一位 | ||
従一位 | ||
正二位 | ||
従二位 | ||
正三位 | ||
従三位 | ||
正四位上 | ||
正四位下 | ||
従四位上 | ||
従四位下 | ||
正五位上 | 外正五位上 | |
正五位下 | 外正五位下 | |
従五位上 | 外従五位上 | |
従五位下 | 外従五位下 | 阿倍安積臣継守 |
正六位上 | 外正六位上 | |
正六位下 | 外正六位下 | |
従六位上 | 外従六位上 | |
従六位下 | 外従六位下 | |
正七位上 | 外正七位上 | |
正七位下 | 外正七位下 | |
従七位上 | 外従七位上 | |
従七位下 | 外従七位下 | 阿倍安積臣継足 |
正八位上 | 外正八位上 | 阿倍安積臣継守 |
正八位下 | 外正八位下 | |
従八位上 | 外従八位上 | |
従八位下 | 外従八位下 | |
大初位上 | 外大初位上 | |
大初位下 | 外大初位下 | |
少初位上 | 外少初位上 | 丸子部古佐美 |
少初位下 | 外少初位下 | 狛造子押麻呂 |
西暦(和暦) | 豪族名 | 官職・位階等 | 内容 | 出典 |
---|---|---|---|---|
769(神護景雲3) | 丈部直継足 | 安積郡人・外従七位下 | 阿倍安積臣を賜姓 | 続日本紀 |
772(宝亀3) | 丈部継守 | 安積郡人 | 阿倍安積臣を賜姓 | 続日本紀 |
791(延暦10) | 阿倍安積臣継守 | 安積郡大領・外正八位上 | 軍糧献上により、外従五位下に叙位 | 続日本紀 |
797(延暦16) | 丸子部古佐美 | 安積郡人・外少初位上 | 大伴安積連を賜姓 | 日本後紀 |
大田部山前 | ||||
丸子部佐美 | 富田郡人 | |||
丸子部稲麻呂 | 小田郡人 | |||
843(承和10) | 狛造子押麻呂 | 安積郡百姓・外少初位下 | 陸奥安達連を賜姓 | 続日本後紀 |
870(貞観12) | 矢田部今継 | 安積郡人 | 阿倍陸奥臣を賜姓 | 日本三代実録 |
丈部清吉 |
772(宝亀(ほうき)3)年の丈部継守(はせつかべのつぐもり)は、継足と同じく阿倍安積臣の姓を与えられている。しかし、継足とは異なり直のカバネを称していないことから、別系統の豪族、もしくは同一の系統であったとしても傍系(ぼうけい)の出身であったことがうかがえる。継守は、この時点では位階も官職も有していないが、19年後の791(延暦(えんりゃく)10)年までには、外正八位上(げのしょうはちいのじょう)の位階を授けられ、安積郡の大領(たいりょう)に任じられていた。安積郡の大領とは、安積郡の郡司(ぐんじ)の中の長官のことである。継守が、安積郡を代表する有力豪族であったことは疑いない。となれば、安積郡には、継足と継守が属する少なくとも二系統の有力豪族がいて、その勢力も拮抗(きっこう)していたことが推測できる。
このとき継守は、軍糧(ぐんろう)を献上することによって、外従五位下(げのじゅごいのげ)の位階を授かっている。外正八位上から外従五位下への昇叙(しょうじょ)によって、継守の位階は九階級あがったことになる。軍糧は、東北地方の北部で蝦夷(えみし)と戦っていた中央政府に献上されたものである。中央政府の蝦夷との戦いに、継守は積極的に協力することによって、自らの地位を高めていったのである。
797(延暦16)年の丸子部(まるこべ)古佐美・大田部山前・丸子部佐美・丸子部稲麻呂は、いずれも大伴安積連(おおとものあさかのむらじ)の姓を与えられている。連(むらじ)のカバネは下位に位置付けられ、臣のカバネに次ぐ。賜姓(しせい)以前、4名はカバネを有しておらず、位階を持つ丸子部古佐美も外少初位上(げのしょそいのじょう)とその地位は低い。彼らは、継足や継守に比べれば、勢力の劣る豪族であったと考えられる。この時点で、丸子部佐美は富田郡、丸子部稲麻呂は小田郡に居住している。両郡は陸奥国の北部、現在の宮城県域に存在した郡である。丸子部佐美と丸子部稲麻呂は安積郡の出身で、両郡に移住したのだと考えられる。同じ丸子部の姓を称する古佐美・佐美・稲麻呂の3名は同系統の豪族の可能性が高く、安積郡の郷の一つである丸子郷との関連も考えられる。
843(承和(じょうわ)10)年の狛造子(こまのみやつこ)押麻呂は、陸奥安達連(むつあだちのむらじ)の姓を与えられている。狛は高麗に通じ、彼が朝鮮半島に存在した高句麗(こうくり)出身の渡来人(とらいじん)(帰化人(きかじん))の子孫であることがわかる。「安積郡百姓(ひゃくせい)」とあるが、当時の百姓は、江戸時代のように農民に限定される存在ではない。造子は造(みやつこ)と同じで、カバネである。新しい姓に含まれる地名が安達であることから、押麻呂は、後に安達郡として分置される範囲に存在した安達郷に居住していたと考えられる。
870(貞観(じょうがん)12)年の矢田部(やたべ)今継と丈部清吉は、阿倍陸奥臣(あべむつのおみ)の姓を与えられている。新しい姓に含まれる地名が、これまでの安積や安達と異なり、陸奥という国名になっている。安積や安達には、それらの地名を含む姓を与えられた人物と、その地域との強い結びつきが感じられるが、陸奥の地名にはそのような土着性はうかがい難い。矢田部今継や丈部清吉の出自(しゅつじ)を考える上で、考慮すべき点であろう。
以上でみたのは、あくまでも国の正史に登場した豪族である。彼ら以外にも、安積郡には大小の豪族が存在したとみられる。このような限られた事例からでも、安積郡に多様な豪族の存在したことが分かる。
〈参考文献〉
垣内和孝『郡と集落の古代地域史』 岩田書院 2008年
郡山市編『郡山市史』第一巻 郡山市 1975年
郡山市編『郡山市史』第八巻 郡山市 1973年
鈴木啓『福島の歴史と考古』 纂集堂 1993年