安積山 影さへ見ゆる 山の井の
浅き心を わが思はなくに
わが国最古の和歌集とされる『万葉集(まんようしゅう)』に、この安積山の歌が収められている。同書によれば、葛城王(かつらぎおう)が陸奥国(むつのくに)に下向した折、国司(こくし)のもてなしが不十分であったために王が不機嫌となったが、前采女(さきのうねめ)が機転を利(き)かせてこの歌を詠(よ)み、その場を和(なご)ませたという。後に『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の序文が、難波津(なにわづ)の歌とともに安積山(あさかやま)の歌を取り上げ、「うたのちゝはゝ」と絶賛したため、和歌の中で特別な存在となる。
安積山の歌が詠まれたのは、葛城王が陸奥国へ下向した年である。『万葉集』はその具体的な年次を語らないが、724(神亀(じんぎ)元)年に陸奥国府(むつこくふ)の多賀城が完成した際、その「オープニングセレモニー」へ出席のため、葛城王は陸奥国に下向したとの見解がある。歌が詠まれた場所も明記されないが、多賀城と安積郡という二つの考え方がある。また、前采女は歌の作者ではなく、詠者として登場しており、安積山の歌そのものは、これ以前から存在していたとの推定もある。その場合、安積山は都(みやこ)周辺に存在した可能性が高い。大阪府堺市には「浅香山」の地名があり、その候補である。
このように、安積山の歌については不明確な点が少なからずあったが、2008(平成20)年5月に公表された滋賀県甲賀市の宮町遺跡出土の木簡(もっかん)は、安積山の歌について多くのことを明らかにした。問題の木簡には、安積山の歌と難波津の歌が、木簡の両面に一首ずつ墨書(ぼくしょ)されており、その年代は744~745(天平(てんぴょう)16~17)年以前と考えられている。10世紀初頭に成立した『古今和歌集』のはるか以前から、二つの歌はセットで認識されていたのである。このような状況は、安積山の歌が、葛城王の陸奥国下向以前から存在していたとする推定とも符合する。都でよく知られていた和歌を、鄙(ひな)の陸奥国で聞いたからこそ、都人である葛城王は、機嫌を直したのだと考えられる。
歌が詠まれた場所は、葛城王をもてなしたのが陸奥国司であったとすると、陸奥国府の多賀城と考えるのが自然である。しかし、歌の詠まれたのが724年とすると、多少の問題が生じる。この年は、石背国(いわせのくに)(中通り・会津地方)と石城国(いわきのくに)(浜通り地方)が、陸奥国へ併合される年である。葛城王をもてなしたのが、廃止される石背もしくは石城国司であった可能性も否定できないからである。安積郡は石背国の管轄であり、石背国府が安積郡に存在していたとすれば、アサカの音の通じる場所で歌が詠まれたことに、葛城王が興を感じたとも想像できる。
安積山の歌のように、歴史上の著名な事柄が、地名の一致などから、地域の歴史の中に組み込まれることは少なくない。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)をめぐる伝説もその一つである。田村麻呂をめぐる伝説は、東北地方を中心に各地に存在する。田村の地名に通じることから田村地方にも分布し、三春城を本拠とした田村氏は、田村麻呂の子孫と称している。ただし、田村氏が坂上氏の子孫を称するのは江戸時代になってからで、戦国時代は平氏を称していた。田村地方に田村麻呂の伝説が広まるのは、御伽草子(おとぎぞうし)の「田村草子」の内容を引き継いだ奥浄瑠璃の「田村三代記」などの影響による。この奥浄瑠璃にはいくつかの系統があるようで、伝播(でんぱ)の過程で内容が複雑になったり、地方色を強めたりしたと考えられている。
田村麻呂の出生地を、田村町徳定とする伝説も、悪玉姫(あくだまひめ)をめぐる物語の一つである。土地の女である悪玉姫が結ばれる相手は、田村麻呂ばかりでなく、その父親である苅田麻呂(かりたまろ)とするものがある。当地でよく聞くのは、苅田麻呂と悪玉姫が結ばれて田村麻呂が生まれるという内容である。実際に田村麻呂が誕生したのは758(天平宝字(てんぴょうほうじ)2)年である。その前年に苅田麻呂は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱に際して、反乱の首謀者の一人に、反乱の妨げにならないようにと都で拘束されたことが確認できる(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)。この時点で苅田麻呂が都に居り、有力な武人の一人と認識されていたことが知られる。世情不安定な時期に、そのような苅田麻呂が、都から遠く離れた陸奥国において、悪玉姫と結ばれたとは考えられない。苅田麻呂が陸奥国と関係を持つのは、770(宝亀(ほうき)元)年に鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)に任じられたのが最初であるが、彼がこの職にあったのは僅か半年ほどである。
古代においては、中央と地方の格差は現代の我々が考える以上である。安積郡を代表する豪族である阿倍安積臣(あべのあさかのおみ)が、大量の軍糧(ぐんろう)を献上して得たのは、外従五位下(げのじゅごいのげ)という位階(いかい)に過ぎなかった。かりに田村麻呂が陸奥国の出生だとすると、たとえ父親が中央の武人である苅田麻呂だとしても、大きなハンデを背負っていたことになる。生前に正三位大納言(しょうさんみだいなごん)という公卿(くぎょう)にまでなることは、できなかったと考えるのが自然である。
〈参考文献〉
大塚徳郎『坂上田村麻呂伝説』 宝文堂出版 1980年
郡山市編『郡山市史』第一巻 郡山市 1975年
郡山市編『郡山市史』第八巻 郡山市 1973年
栄原永遠男『万葉歌木簡を追う』 和泉書院 2011年
鈴木啓「安積采女と多賀城創建」『福大史学』第七四・七五号 2003年