14 仏と神

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 現代を生きる私たちと違って、古代に生きた人々は、仏(ほとけ)や神(かみ)といった存在と真摯(しんし)に向き合っていたと思われる。そうであるとすれば、古代の安積郡を考えるに際して、仏や神といった宗教的な事柄を軽視することはできない。とりわけ古代においては、中央の政府が、法律である律令(りつりょう)とともに、当時の東アジアで広く受け入れられていた仏教を積極的に受容し、統治の手段としても利用していた。国ごとに国分寺や国分尼寺が置かれたことに、それは如実(にょじつ)に示されている。郡ごとにも、郡寺(ぐんでら)と通称される寺院の存在していたことが分かってきている。安積郡にも郡寺が存在したとみられるが、その確かな位置は判明していない。

 この郡寺とは別に、安積郡に存在した寺院の記録が『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』にある。881(元慶(がんぎょう)5)年、安積郡の弘隆寺(こうりゅうじ)が天台別院(てんだいべついん)となったことが記されている。天台宗の重要な寺院を意味する天台別院となった弘隆寺は、天台宗の地方布教の拠点になったと考えられる。弘隆寺の所在について確かなことは不明ながら、現在の二本松市木幡の治陸寺(ちろくじ)を弘隆寺の後身とする伝承がある。かつて木幡山を敷地とした治陸寺は、山林修行を重んじた天台宗寺院の立地としてふさわしいことから、伝承を支持する見解も出されている。

 安積郡の郡寺や天台別院となった弘隆寺は、おそらく堂や塔といった伽藍(がらん)を伴う本格的な寺院であったとみられる。そのような場での仏教は、豪族層によって担われ、国家や豪族のための法会(ほうえ)が催されたと考えられる。しかし仏の信仰は、より下層の人々の間にも広まっていた。


弘隆寺との伝承を伝える治陸寺

 仏教説話集(せつわしゅう)の『日本霊異記(にほんりょういき)』には、村の中に存在する仏堂(ぶつどう)が登場し、全国各地の遺跡においても、この仏堂とみられる遺構が見つかっている。富久山町堂坂の妙音寺遺跡(みょうおんじいせき)でも、仏堂の可能性のある掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が見つかった。この建物は、西・南・東の三面に庇(ひさし)を持ち、柱穴の一つからは数珠玉(じゅずだま)が出土した。確かなことは不明ながら、堂内には金銅製(こんどうせい)の小さな仏像が安置されていた可能性がある。また、田村町山中の東山田遺跡(ひがしやまだいせき)からは、瓦塔(がとう)と呼ばれる焼き物の塔の破片が出土した。瓦塔は、寺院に存在する建築物としての塔を模して造られたものである。東山田遺跡の一画に、仏を信仰する場が存在していたことは疑いない。おそらく古代の村人たちは、村の一画に建てられた仏堂などに詣(もう)で、病気の平癒(へいゆ)や現世での幸福を仏に願ったのであろう。


仏堂とみられる妙音寺遺跡の掘立柱建物

 古代の村には、土地の神を祀った社(やしろ)も存在した。神前では、春には豊作を祈念する祭りが、秋には収穫に感謝する祭りが行なわれた。このような村の社を管理し、祭りを主宰したのは、村の有力者であった。彼らは、春には稲を村人に貸し付け、秋には利息を付けて返還させたりしていた。村の社が、村の有力者と村人とを結び付ける役割をも果たしていた。

 安積郡には、このような村の社ばかりでなく、中央の政府や陸奥国(むつのくに)が管理した神社が存在した。そのような神社は式内社(しきないしゃ)と呼ばれ、安積郡に三社あった。宇奈己呂別神社(うなころわけじんじゃ)・飯豊和気神社(いいとよわけじんじゃ)・隠津島神社(おきつしまじんじゃ)である。式内社を名乗る神社は、現在も存在する。しかしそれらは、江戸時代になってから式内社を名乗っているようであり、本当に式内社であるかどうかは、検討が必要である。


堀之内の隠津島神社

 宇奈己呂別神社とされているのは、三穂田町八幡に鎮座(ちんざ)する同名の神社、飯豊和気神社とされているのは、三穂田町下守屋に鎮座する同名の神社である。隠津島神社と称する神社は三社あり、二本松市木幡・湖南町福良・喜久田町堀之内にそれぞれ鎮座する。二本松市木幡の隠津島神社以外は、いずれも郡山市の西部にあって、分布が大きく偏る。このような傾向は、平安時代末期に安積郡の範囲が確定した後の事実に影響され、安達郡や田村荘(郡)や小野保の範囲を除外して、式内社の位置を考えた結果ではないかと疑われる。

 このように、式内社の位置は不明確なのであるが、隠津島神社については、その位置を推定する証拠がある。式内社を列記する『延喜式(えんぎしき)』が、隠津島の訓(よみ)を「カクツシマ」とするのである。現在ではオキツシマと読むのが一般的だが、かつてはカクツシマと読まれていた可能性が高い。喜久田町堀之内は、室町時代には「角津島」と表記されており(「相殿八幡神社文書」)、角津島の読みはカクツシマであろうから、角津島は隠津島の当て字となる。そして既に触れたように、角津島である喜久田町堀之内には隠津島神社が鎮座していた。式内社の隠津島神社は、堀之内の隠津島神社である可能性が高いと判断できる。

(垣内和孝)

〈参考文献〉

郡山市編『郡山市史』第一巻 郡山市 1975年

郡山市編『郡山市史』第二巻 郡山市 1972年

郡山市編『郡山市史』第八巻 郡山市 1973年

郡山市文化・学び振興公社編『清水台遺跡と古代の郡山』 郡山市教育委員会 2008年

郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団編 『郡山東部16』 郡山市教育委員会 1995年