郡山市にある遺跡のうち、中世の遺跡として登録されているのは、約320ヵ所である。それらのうち、城館(じょうかん)は約190ヵ所、石造物(せきぞうぶつ)は約70ヵ所である。中世の遺跡の大半が、城館や石造物として登録されている理由の一つは、城館や石造物が、地表面の観察のみでそれと確認できるからであろう。城館の多くは、現在でも残る堀や土塁を、地面の凹凸として把握できる。石造物も、地上に露出している板碑(いたび)や石塔(せきとう)などが、遺跡として登録されている。
奈良・平安時代以前の遺跡の多くは、遺物の散布地として把握される集落である。そのため、城館や石造物を中心とした中世の遺跡分布を、奈良・平安時代以前の遺跡分布と直接的に比較することは難しいかもしれない。しかし、城館や石造物が存在する背景には、それらを構築した人々の住む集落の存在を想定するのが自然である。
弥生~奈良・平安時代の遺跡は、河川流域の平地や丘陵地に偏って分布する。ところが中世の遺跡は、奥羽山脈などといった山岳地帯を除いて、平地・丘陵地・山間地などの別なくほぼ均等に遺跡が確認できる。弥生~奈良・平安時代と比較して、中世は社会の基盤が変化、もしくは多様化したことがうかがえる。
発掘調査された中世の遺跡を概観すると、館(やかた)の周辺に、町や村の広がっている事例の少なくないことが分かる。以下では、実際に発掘調査された中世の遺跡の代表例を見てみる。
安積町荒井の荒井猫田遺跡(あらいねこたいせき)では、堀によって区画された館、両側に側溝を持つ道、道に沿って広がる町などが見つかった。それらは、鎌倉時代を中心に機能していたらしい。道には南北方向にのびる道と東西方向の道があり、二つの道は、南北方向の道の中ほどで直交する。その交差点を中心に、南北方向の道の両側に町が広がる。交通の要衝に位置した町であったのだ。道の路面には、町を構成する建物の柱穴(はしらあな)は認められない。このことから、先ず道が敷設され、続いて町が建設されたとわかる。道と町は、一連の計画のもとに建設されたと考えられる。それに対して館は、道や町からは若干時期が遅れて建設された可能性がある。館の位置が町の中心からずれ、町を構成する建物の柱穴や井戸が、館の敷地内にも確認できるからである。
西田町三町目の穴沢地区遺跡群(あなざわちくいせきぐん)は、穴沢館跡(あなざわたてあと)・馬場中路遺跡(ばばなかみちいせき)・馬場小路遺跡(ばばこうじいせき)・黒田遺跡(くろだいせき)で構成され、平安時代の終り頃から南北朝時代を中心に機能していたと考えられる。荒井猫田遺跡のように計画的に道や町が整備された様子はうかがえないが、館である穴沢館跡があり、その周辺に、馬場中路遺跡などで見つかった村の広がる様相が判明した。
三穂田町川田の白旗遺跡(しらはたいせき)・勝利ヶ岡遺跡(しょうりがおかいせき)・転沢遺跡(ころびざわいせき)でも、穴沢地区遺跡群と同様の様相が見て取れる。白旗遺跡からは、堀に区画された鎌倉時代の館が見つかった。館を構成する掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)の中には、柱穴の底面に根石(ねいし)を据えたものが含まれる。この建物は規模も大きく、主殿(しゅでん)のような中心的な役割を担っていたと考えられる。白旗遺跡の西側に隣接する勝利ヶ岡遺跡や、南東側に隣接する転沢遺跡からは、村を構成するとみられる掘立柱建物や井戸などが見つかった。
阿久津町の風早遺跡(かざはやいせき)では、堀に区画された鎌倉~戦国時代の館が見つかり、堀の外側には、一棟のみではあったが掘立柱建物が確認できた。発掘調査した範囲が限られるため定かではないが、館の外側にはより多くの掘立柱建物が存在し、村を構成していたと想像できる。
以上でみた遺跡のうち、荒井猫田遺跡は、他の遺跡の村に該当する部分の遺構密度が高い上に、計画的な建設が予想できることから、村ではなく町と表現したが、館が単独で存在していない点は、他の遺跡と同様である。中世の遺跡は、館と村・町がセットで存在したのである。遺跡としては把握できないが、これらに近接して寺院が存在したであろうし、板碑や石塔といった石造物の立つ宗教的な場も、遠くない場所に位置したと想定できる。
〈参考文献〉
郡山市教育委員会編『郡山東部Ⅲ』 郡山市教育委員会 昭和58年
郡山市文化・学び振興公社編『埋もれていた中世のまち 荒井猫田遺跡』 郡山市教育委員会 平成21年
郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団編『郡山東部8』 郡山市教育委員会 昭和63年
郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団編『郡山東部9』 郡山市教育委員会 平成元年
郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団編『郡山東部10』 郡山市教育委員会 平成2年
郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団編『白旗遺跡 転沢遺跡』 郡山市教育委員会 平成14年
郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団編『白旗遺跡(第2次) 転沢遺跡(第2次)』 郡山市教育委員会 平成17年
福島県文化センター編『東北自動車道遺跡発掘調査報告勝利ヶ岡遺跡』 福島県教育委員会 平成8年