1189(文治(ぶんじ)5)年の奥州合戦によって、平泉藤原氏が滅亡する。奥羽(おうう)は鎌倉幕府の管轄となり、郡や荘園の多くが、幕府の御家人(ごけにん)に与えられる。現在の郡山市の西部にほぼ相当する安積郡は、静岡県の伊豆地方の領主である伊東氏が地頭(じとう)となる。ただし伊東氏の惣領家(そうりょうけ)は、幕府の有力御家人であったため通常は鎌倉におり、安積郡には一族や家人(けにん)が代官として下向したとみられる。伊東氏の総領家が実際に安積郡に下向するのは、鎌倉時代の後期になってからと考えられる。
郡山市安積町荒井の宝光寺(ほうこうじ)には、今は廃寺(はいじ)となってしまった安養寺(あんようじ)の板碑(いたび)がある。この板碑は、高さが1.7mを超える堂々たるもので、1283(弘安(こうあん)6)年に「藤原祐重」が亡父の百箇日忌の法要に際して建てたと銘文(めいぶん)に刻まれている。供養された亡父は、安積郡地頭の祐能(すけよし)であることが確かめられているので、その子供で法要を主宰したとみられる祐重(すけしげ)は、祐能の後継者と考えるのが自然である。ただし、供養塔に施主である造立者の名前を記すことは珍しい。
鎌倉幕府の正史(せいし)である『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、祐重とほぼ同じ時期に活動が確認できる祐家(すけいえ)の存在が記録されている。後世の編纂物(へんさんぶつ)ではあるが、この祐家を祐能の後継者とする記録もある(「伊東家系譜」)。
安積郡における伊東氏の拠点は、『相生集(あいおいしゅう)』に代表される江戸時代の地誌(ちし)が片平と評価して以来、これを支持する見解が根強い。しかし近年の研究は、この伊東氏の片平本拠説には否定的である。その一つに、祐能の父親で、安積郡伊東氏の初代地頭とみられる祐長に因む「祐長壇」や「祐長社」に注目する見解がある。「祐長壇」は、今では地名が失われた高石にあり、「祐長社」は同じく方八丁にあったと伝えられ(『相生集』)、その周辺の松木町や方八町・昭和・芳賀を伊東氏の拠点と推定する。また、前項で触れた荒井猫田遺跡(あらいねこたいせき)の発掘調査の成果を受け、旧安養寺の板碑(いたび)を再評価する見解もある。安養寺の旧所在地は荒井猫田遺跡の隣接地であり、同遺跡でみつかった鎌倉時代の館(やかた)を、伊東氏の拠点と評価する。板碑に注目する見解は以前から提示されており、古い板碑の少ない片平を伊東氏の拠点とする説を批判していた。以上の他にも、熱海町の安子島城跡(あこがしまじょうあと)の発掘調査成果や、喜久田町にある堀之内の地名に注目する見解などがある。
このように、鎌倉時代の伊東氏に関しては、その歴代や安積郡の拠点などについて諸説あり、確定的なことは判明していないのが現状である。しかし、祐重と祐家の関係に象徴されるように、伊東氏を一系統として固定的に捉えることがそもそも問題であり、安積郡の拠点についても、祐長や祐能といった世代ごとに拠点となる場所が変わるような、流動的な捉え方が必要と考えられる。
なお、鎌倉時代末期に活躍した浄土真宗(じょうどしんしゅう)の安積門徒(あさかもんと)は、富田町の音路(おとろ)にあった寺院を拠点の一つにしたと考えられている。この安積門徒を率いた僧侶である法智(ほうち)の出身は定かではないが、伊東氏との関連も否定できす、拠点の分散性という考え方と符号する。
阿武隈川を挟んで、安積郡の対岸に当たる現在の郡山市の東部や田村市・田村郡にほぼ相当する範囲が、田村荘である。その領主である田村氏の鎌倉時代の様子は、伊東氏以上に分からないことが多い。
田村荘の領主について記した最初の記録は、1254(建長(けんちょう)6)年に成立した『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』で、「田村郷」の領主を「前刑部大輔仲能朝臣(さきのぎょうぶのたいふなかよしあそん)」とする。この仲能は、秀郷流(ひでさとりゅう)もしくは実頼流(さねよりりゅう)の藤原氏とみられる(『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』)。南北朝時代以降、顕著な活動が認められるようになる田村荘司を、この仲能の後裔(こうえい)みなすのが一般的である。しかし、田村荘司の一族である田村氏は平氏を称しており、藤原氏である仲能と直接結び付ける考えには、疑問も提示されている。
仲能は鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)をつとめ、子孫には鎌倉や京都(六波羅(ろくはら))に出仕した人物が散見する(『吾妻鏡』『尊卑分脈』)。このような事実は、仲能の一族の性格をうかがわせる。当時の荘園の領有権は重層的であり、最終的な領主権である本家職(ほんけしき)や領家職(りょうけしき)とは別に、現地を実際に管理する人物が下司職(げすしき)を保持していた。荘司職(しょうじしき)もそのような下司職の一つである。仲能は、田村荘司の田村氏とは異なる藤原氏であったから、彼が保持する田村荘に対する領主権は、荘司職ではなく、その上位に位置する本家職や領家職であったと捉えるのが自然である。
『吾妻鏡』に代表される鎌倉時代の記録には、田村荘司の田村氏は認められない。その一方で、安積郡の地頭である伊東氏はたびたび確認できる。鎌倉幕府内における両氏の立場に、格差のあったことがうかがえる。伊東氏が、奥州合戦後に地頭となった関東出身の有力御家人であるのに対し、田村氏は、奥州出身の非御家人(ひごけにん)であった可能性がある。
〈参考文献〉
垣内和孝『室町期南奥の政治秩序と抗争』 岩田書院 2006年
郡山市編『郡山市史』第一巻 郡山市 1975年
郡山市編『郡山市史』第八巻 郡山市 1973年
郡山市文化・学び振興公社編『郡山の中世 板碑の世界』 郡山市教育委員会 2012年
高橋明「荒井猫田遺跡の可能性」 藤原良章・飯村均編『中世の宿と町』 高志書院 2007年