17 佐々河落城と伊東氏の動向

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 1333(元弘(げんこう)3)年5月23日、安積郡の佐々河城(ささがわじょう)(安積町笹川)が落城する。攻城軍には、現在の福島県石川地方の領主の一人である石川光隆が参加していた。また、いわき地方の領主の一人である岡本隆弘も、この軍事行動に関係していたらしい。一方で佐々河城に籠(こも)っていたのは、北条国時(ほうじょうくにとき)の子息である陸奥六郎と渋川七郎、同じく家人(けにん)の土持二郎入道(つちもちじろうにゅうどう)と土持六郎左衛門入道(つちもちろくろうざえもんにゅうどう)である(「秋田藩家蔵文書」)。北条国時は鎌倉幕府の重鎮で、安積町笹川から須賀川市塩田の辺りを所領にしていたと考えられる。佐々河城は、国時の所領支配の拠点であったとみられる。国時は、このとき鎌倉に居たため、子息や家人の籠城となったのである。


安積郡における佐々河城の位置


佐々河城の故地とみられる安積町笹川地区

 国時がいた鎌倉は、前日の22日、新田義貞や足利千寿王(後の義詮(よしあきら))等に率いられた軍勢に攻められ陥落していた。鎌倉幕府の滅亡である。倒幕の軍事行動は、直接的には後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による倒幕の命令を受けたものであるが、北条氏と姻戚関係にあり、清和源氏(せいわげんじ)の名門として幕府で重い位置にあった足利尊氏が、反幕府・反北条氏に転じたことが、多くの武士の動向に決定的な影響を及ぼしたとも説かれている。その尊氏は、幕府の京都における拠点である六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略している。確かに尊氏の存在は無視できないものの、ほぼ同時の軍事行動が成功した背景には、反幕府・反北条氏の機運が広く浸透していたことも疑いないであろう。鎌倉の攻撃には、現在の白河地方の領主の一人である結城宗広も加わっていた。

 石川光隆・岡本隆弘・結城宗広という具合に、福島県内に所領を持つ領主の多くが、軍事行動に参加していた。史料で確認することはできないが、安積郡の地頭である伊東氏も、各地に広がった倒幕の機運を共有していた可能性が高い。佐々河城に籠ったのは、北条国時の子息・家人と記録され、伊東氏の名が見られないからである。家人の土持氏は、現在の宮崎県北部を基盤としていた領主であり、安積郡近辺には所領を保持していなかったとみられる。安積郡をはじめとした周辺地域の領主が佐々河城に籠城したことは確認できず、佐々河城が地域の中で孤立していたことがうかがえる。翌1334(建武(けんむ)元)年正月に整備された陸奥国府(むつこくふ)の職制において、伊東氏が存在感を示している事実も、伊東氏の動向を評価する上で無視できない。

 陸奥国府の職制は、最高評議機関である式評定衆(しきひょうじょうしゅう)や、訴訟機関の引付(ひきつけ)、政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)や評定奉行(ひょうじょうぶぎょう)・寺社奉行(じしゃぶぎょう)・安堵奉行(あんどぶぎょう)などからなる。あたかも幕府を小規模に再現した構成であり、「奥州小幕府」と評されている。それぞれの役職に就いた人物は、主に公家や陸奥国内の有力武士、かつて鎌倉幕府の官僚であった人物である(『建武年間記』)。目立つのは白河地方の結城氏で、宗広と親朝が父子そろって式評定衆となっている。二階堂氏も行朝と顕行の二人が式評定衆となっているが、二人は別系統であり、この時点で陸奥国内に所領を有していたことも確認できない。鎌倉幕府の官僚としての実績を評価されて就任したと考えられる。陸奥国の武士で式評定衆となったのは、結城父子の他には、伊達地方の領主である伊達行朝(だてゆきとも)のみである。

 引付には陸奥国の武士が散見し、その中には伊東氏も含まれる。引付二番の一員である薩摩掃部大夫入道(さつまかもんたいふにゅうどう)である。伊東ではなく薩摩を名字としているのは、安積郡の初代地頭とみられる祐長が薩摩守(さつまのかみ)に任じられたことがあり、そのことに因んで、鎌倉時代には子孫が薩摩を名字としていたからである。薩摩掃部大夫入道は、寺社奉行を兼帯(けんたい)している。侍所には、薩摩刑部左衛門入道(さつまぎょうぶざえもんにゅうどう)が任じられている。ただし、実務は子息である五郎左衛門尉親宗(ごろうざえもんのじょうちかむね)が務めるとされている。引付二番の一員である常陸前司(ひたちぜんじ)を安積郡の伊東氏とする見解もあるが、確認できない。

 陸奥国の有力武士の中にも、陸奥国府の職制にみられないものが存在する。この時点までにおける新政権との親疎がそれには影響しているとみられ、実際に、式評定衆の結城父子や伊達行朝は、新政権の崩壊後も後醍醐天皇の主宰した南朝方として活動している。となれば、引付二番の一人で寺社奉行を兼ねた薩摩掃部大夫入道や、侍所となった薩摩刑部左衛門入道が、倒幕の軍事行動に無関係であったとは考え難い。両人の関係は定かではないが、ともに薩摩を名字とした安積郡の伊東氏という大きなまとまりでは一族であったとしても、別系統であった可能性も否定できない。

(垣内和孝)

北条国時略系図


〈参考文献〉

郡山市編『郡山市史』第一巻 郡山市 1975年

郡山市編『郡山市史』第八巻 郡山市 1973年

今野慶信『藤原南家武智磨四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図』

峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編「中世武家系図の史料論」上巻 高志書院 2007年

佐藤進一『南北朝の動乱』 中央公論社 1965年

高橋明「荒井猫田遺跡の可能性」 藤原良章・飯村均編『中世の宿と町』 高志書院 2007年