1 建武新政と安積氏

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 後醍醐(ごだいご)天皇は「公家一統(こうかいっとう)」(1)すなわち院、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)等を廃して天皇親政の独裁政治をめざした。幕府の復活も否定したのである。

 1333(元弘(げんこう)3)年10月陸奥守(むつのかみ)となり第七皇子義良(のりよし)親王を奉じて多賀国府(たがこくふ)(宮城県多賀城市)に下向した北畠顕家(きたばたけあきいえ)16歳が翌34(建武(けんむ)元)年春国庁(こくちょう)の最高評議機関である式評定衆(しきのひょうじょうしゅう)以下引付衆(ひきつけしゅう)・諸奉行(ぶぎょう)等の職制を定めた。在地領主等を組織するために鎌倉幕府の機構を模したものといえよう。父親房(ちかふさ)が後見する。

 常陸前司(ひたちぜんじ)が訴訟機関の引付衆に任ぜられ、薩摩掃部大夫入道(かもんたいふにゅうどう)が引付衆と寺社奉行、薩摩刑部左衛門入道(ぎょうぶさえもんにゅうどう)が侍所(さむらいどころ)に任ぜられる。三人は安積氏の祖薩摩守祐長(さつまのかみすけなが)の後裔(こうえい)にして、常陸前司が安積氏惣領であり安積郡主である。刑部左衛門入道は高齢のためであろうか、子息五郎左衛門尉親宗(ごろうさえもんのじょうちかむね)が代わって勤仕する(郡29)。

 安積郡と田村荘(たむらのしょう)の検断(けんだん)に白河荘南方(しらかわのしょうみなみかた)の結城親朝(ちかとも)が任ぜられた。親朝は父道忠(どうちゅ)(宗広(むねひろ))とともに式評定衆を務(つと)め、白河・高野(たかの)(東白川郡)・岩瀬郡そして石川荘(いしかわのしょう)と依上(よりかみ)(茨城県大子町)・小野保(おののほう)の検断をも兼務する(郡30)。検断は軍事・警察をつかさどる。


 注 (郡29)は『郡山市史8』第三編の資料番号を示す。以下(郡数字)は同じ (1)「神皇正統記」・「太平記」