1338(南朝延元(えんげん)3・北朝建武5)年夏頃から、安積新兵衛尉(しんひょうえのじょう)が石川一族の蒲田兼光(かまたかねみつ)等とともに畿内を転戦した(郡33)。2年前の36年、足利尊氏(たかうじ)が光明(こうみょう)天皇を擁立して幕府を創建し、吉野に遁(のが)れた後醍醐天皇と争う南北朝の動乱が始まった。京都の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝と呼ぶ。元服した義良親王が陸奥大守(むつのたいしゅ)となるに伴い、陸奥大介(むつのおおすけ)兼鎮守府大将軍(ちんじゅふだいしょうぐん)となった北畠顕家が奥州諸氏を率いて西上するに、新兵衛尉は幕府方=北党となってこれと戦ったのである。新兵衛尉はのちに新左衛門尉(しんさえもんのじょう)の官途名(かんとみょう)を名乗る安積祐信(すけのぶ)と思われる。掃部大夫人道の嫡男である。顕家21歳は戦死した。41(興国(こうこく)2・暦応(りゃくおう)4)年夏には「安積輩(あさかのともがら)」が郡検断の結城親朝と戦う(郡34)。
1343(興国4・康永(こうえい)2)年2月、南奥南党の柱石(ちゅうせき)結城親朝が降参して、尊氏に対し率いる「一族幷一揆輩(ならびにいっきのともがら)」の名簿を提出するに、検断権下の伊東刑部左衛門入道性照(しょうしょう)・同常陸(ひたち)新左衛門尉祐信・同五郎入道顕光(けんこう)(親宗)及び田村遠江権守宗季(とおとうみごんのかみむねすえ)・同一族等を記す(郡35)。
田村荘司(たむらのしょうじ)一族中にもすでに北党に与(くみ)する者はあったが(2)、荘司宗季が降参することはなかった。「河曲輩(かわまがりのともがら)」及び穴沢(西田町)の穴沢成季(しげすえ)も宗季に従う。翌44年夏、北党の奥州総大将石塔義房(いしどうよしふさ)の嫡男義元(よしもと)が宗季を宇津峯城に攻めた。
注 (郡29)は『郡山市史8』第三編の資料番号を示す。以下(郡数字)は同じ (1)「神皇正統記」・「太平記」 (2)松平結城文書『福島県史7』二51三