1346(興国7・貞和(じょうわ)2)年12月、北奥南党の柱石南部政長(なんぶまさなが)が北党に転じて、南奥に残る南党田村宗季・伊達行朝(ゆきとも)等に対する総攻撃が行われ、翌47年秋宇津峯城(宇津峰・埋峰・埋峯城とも)等は攻め立てられて宗季等は降参した。降参すれば「所領之半分、三分一ヲも安堵(あんど)」するのが「古来」の「風儀」であり(3)、田村荘司一族が滅亡するのではない。
1351(正平(しょうへい)6・観応(かんのう)2)年3月、安積祐信と田村弾正(だんじょう)が「田村の一族・安積の一族」の一揆(いっき)を結んだ(郡45)。祐信は安積氏惣領(そうりょう)であるが、弾正は三春等田村荘北西部を在所とする荘司の支族である可能性が考えられる。祐信は自立を強める庶家を何とか束ねつつ、弾正一族と攻守同盟を結んだのである。
将軍尊氏と弟直義(ただよし)が幕政の運営をめぐって対立し、戦闘に発展していた(観応の擾乱(じょうらん))。奥州管領府(おうしゅうかんれいふ)により統治が行なわれていた奥羽においては、この前月直義派の奥州管領吉良貞家(きらさだいえ)が尊氏派のもう一人の奥州管領畠山国氏(はたけやまくにうじ)を攻め殺した。尊氏と直義が交互に南朝に降参あるいは和睦して味方に取り込むを図(はか)ったために南党が息を吹き返した。祐信と弾正の一揆は、このような北党の危機にあって田村荘司等に備えたものであろう。地下人(じげにん)すなわち名主(みょうしゅ)・百姓以下の支配における連携をも約束する。
1352(正平7・観応3)年春、陸奥介(むつのすけ)兼鎮守府将軍北畠顕信(あきのぶ)(顕家の弟)とその次子中院守親(なかのいんもりちか)が後醍醐天皇の孫にして宇津峯宮を名乗った守永王(もりながおう)を奉じて宇津峯を拠城とした。尊氏が直義を殺害して幕府内の対立は終息し、尊氏に服した吉良貞家が石川・白川・伊達・相馬・伊賀・国魂(くにたま)・佐原・葦名(あしな)・長沼・那須の諸将を指揮して攻める(郡47~55・60・61)。安積氏が加わるも疑いない。翌53(正平8・文和(ぶんな)2)年5月4日宇津峯城は陥落した。白川顕朝(あきとも)(親朝の子)が「三与田(みよた)・穴沢・八田河等」と「欠所(けっしょ)」(没収地)を与えられ(郡46)・(4)、田村荘・安積郡等の検断に復された(郡59)。
田村荘司は降参し、顕信等は出羽国に遁れて、奥羽における南北朝の争乱は事実上終息する。
観応・文和宇津峯合戦の交戦場 基図は国土交通省国土地理院
①佐々河(交戦日52年4月2日) ②唐久野(柄久野原とも。52年7月3日) ③三世田城・六日市庭城(52年7月3日) ④新御堂(52年7月7日) ⑤矢柄(やへい)城(52年7月9日) ⑥谷田河(52年8月7日~・52年9月6日) ⑦河曲(52年10月10日・53年2月26日・28日) ⑧柴塚(53年4月5日) ⑨東乙森(53年4月5日) ⑩石森峯(53年4月5日・同15日)―場所未詳 ⑪切岸・壁際・責口・一木戸(53年4月15日) 北党総大将吉良貞家は稲村城を出撃して部谷田(部屋田・戸谷田とも。日和田)に移り、次いで佐々河に戻って阿武隈川を渉(わた)る。部谷田移動は田村弾正を伴うを考えた可能性が考えられよう。
吉良貞家禁制案 富塚愼一氏所蔵文書
吉良貞家がその将兵の略奪と暴行を禁ずる高札(こうさつ)。大元明王(だいげんみょうおう)を祀る守山社(もりやましゃ)(現田村神社)が迫り来る貞家軍に降参して取得したもの。軍勢は食料等の現地調達すなわち略奪を通例として、それを逃れんとしたのである。本社は山中・守山・岩作・大供・細田を社領とした可能性が指摘されている(渡辺康芳「田村庄と小野保」『三春町史1』)。本社の湯上坊は田村荘司と荘内住人の熊野参詣先達職(せんだつしき)を有する。
注 (郡29)は『郡山市史8』第三編の資料番号を示す。以下(郡数字)は同じ (3)松平結城文書『福島県史7』二51四 (4)白川文書『福島県史7』二50二