1391(南朝元中(げんちゅう)8・北朝明徳(めいとく)2)年、これまで幕府が直轄し奥州管領府(おうしゅうかんれいふ)が行って来た奥羽両国の支配に、その出先機関である関東府が加わり統治を主導する(1)。翌92(明徳3)年閏10月、南北両朝が合体して室町時代となる。
95(応永(おうえい)2)年初冬、奥州管領斯波詮持(しばあきもち)の嫡男満持(みつもち)が石川氏の一族蒲田光広(かまたみつひろ)等を率いて田村荘司清包(たむらのしょうじきよかね)を攻め、佐々河・安武熊河(あぶくまがわ)・唐久野原(からくのはら)に戦った(郡71・72)。翌年6月、関東府主帥(しゅすい)たる関東公方(かんとうくぼう)足利氏満(うじみつ)が白河に着陣し、満持を援(たす)けて鎮圧した(郡74~76)。清包は氏満に抗して遁(のが)れて来た下野国(しもつけのくに)(栃木県)の祇園(ぎおん)城主小山若犬丸(おやまわかいぬまる)を迎え入れて戦ったのである。関東府の料所とされた「田村庄三分一肆拾(しじゅう)村」が白川氏支族の小峯満政(みつまさ)に「預置(あずけおき)」すなわち管理がゆだねられる(2)。
99(応永6)年7月、関東公方満兼(みつかね)22歳(氏満の子)の命令を受け、弟満貞(みつさだ)が岩瀬郡稲村に下着して奥州府を開設した。満貞の任務は奥羽諸氏の掌握を進めつつ、奥州探題(おうしゅうたんだい)(奥州管領の後称)の権力を削(そ)ぐことにあった。満貞は稲村殿と呼ばれ(3)、また奥州御所(ごしょ)と呼ばれたことが考えられる(4)。
1400(応永7)年、将軍義満(よしみつ)に叛意を抱く満兼は関東管領(かんとうかんれい)初め宿老等に諫止(かんし)されて関東府主帥たるの実権を失い、02年7月にはその「狂気」が幕府に報告された(5)。満貞は本領安堵(ほんりょうあんど)・新恩給与(しんおんきゅうよ)・料所預置(りょうしょあずけおき)等所領に関するを含む強大な権限を与えられて下向したが、03年以後それらの行使はなく、軍勢催促(ぐんぜいさいそく)と感状の発給のみとなる。
安積郡三郷田地注文
(宇奈己呂和氣神社所蔵相殿八幡神社文書より・東京大学史料編纂所所蔵影写本)
1439(永享11)年、安積郡惣領安積氏祐が郡下全村に郡総鎮守八幡宮への折紙銭の奉納を指示するに添付した文書である(郡178)。これらは関東府また幕府に届け出た公式の村名と考えられる。各村に付記された公田数が拠出料算出の基準となる。なお、奥下の印等本文書の検討の余地は残る。
注 (1)結城小峯文書『福島県史7』二55一七 (2)伊勢結城文書『福島県史7』二45一〇五・一〇六・一〇七 (3)「鎌倉大日記」 (4)本土寺過去帳『続群書類従』33下 (5)「吉田家日次記」応永九年七月十七日条