2 満直下向と国人一揆

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 1405(応永12)年5月、「谷地城」(場所未詳)の城主が満貞に抗して戦った(郡103)。4年後の09(応永16)年10月、富岡城において「散々」の攻防戦が行われる。この間ないし前後のことであろう、某年8月福原城が攻め落とされ、某年11月には「田村金屋」と稲村城において「連日」の合戦が行われた。

 この奥州府の危機に、満貞の弟満直(みつただ)が下向して戦闘を指揮する(6)。満直は篠川(ささがわ)に拠城を構えた。満直は篠川殿と呼ばれたが、在地の領主等が篠川御所と呼んだ可能性も考えられる。そうであれば、満貞は稲村御所とも呼ばれたであろう。篠川は稲村の前面に位置して、叛意旺盛の菊田荘(きくたのしょう)(いわき市)の藤井氏、田村荘司、会津葦名氏、伊達氏、そして大崎(宮城県北半)に拠(よ)る奥州探題斯波氏を制するに格好の場所である。

 04(応永11)年7月、安積郡の村落領主12名が田村荘の下枝・御代田・中津河・河曲そして岩瀬郡二階堂氏を代表する2名の領主及び小峯満政・猪苗代盛親(もりちか)と一揆を結んで満貞を支持することを盟約した。これとは別に、安積郡の7名が石川荘(いしかわのしょう)の10名と一揆を結び、田村荘のみよた・八田河・墨田(細田)・下行合・阿久津・穴沢・鬼生田等の13名も一揆を結んだ(郡100~102)。満貞に挑む谷地・富岡・福原そして金屋等の領主に対抗したのである。これらの人々を、満貞・満直等の外来勢力に対して在地の領主という意味で国人(こくじん)と呼んだ。

 13(応永20)年8月、奥羽両国は関東府直轄に戻された(7)。


仙道国人一揆契状(『諷軒文書纂・白河證古文書』国立公文書館内閣文庫)
奥州御所満貞を支持する一揆契状。「私の大小事を申し談じ、用に罷り立てべく」云々と記して、地下人支配についての協力と相互の紛争の調停処理をも約束している。円形に連判して連署者相互の平等性を示す。「藤原祐時」が安積氏惣領であろう。「伊東下野(しもつけ)七郎」は後筆(こうひつ)と思われるが、「安積片平城主」も近世の追記にして誤りである。


 注 (6)板橋文書『石川町史三』二一一四一・秋田藩家蔵文書『鮫川村史二』三八六~八八 (7)伊勢結城文書『福島県史7』二45一三四・一三五