1423(応永30)年9月、前将軍足利道詮(どうせん)(義持(よしもち))が満直に鎌倉に進撃して関東府の「沙汰」を致すべきことを命じた(郡111)。道詮は将軍職を子義量(よしかず)に譲るも実権を握り続ける。道詮に「扶持(ふち)」すなわち支援を求める、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱の残党たる関東諸氏を、関東公方足利持氏(もちうじ)(満兼の子)が執拗に攻撃するに対抗したものである。しかしながら持氏が詫びを入れて、関東府主帥の事は沙汰止みとなる。
翌24(応永31)年11月、満貞が鎌倉に帰った。持氏の幕府への対応を援けるためとされるが(郡115)、満直との対立の深まりも考えられよう。
28(正長(しょうちょう)元)年12月、白川氏朝(うじとも)が石川義光(よしみつ)を攻め殺した。満直が氏朝に義光跡等を充行(あてが)ってこれを援け、鎌倉の二橋(ふたつはし)に住んで二橋御所と呼ばれた満貞と持氏が義光の子持光(もちみつ)を援ける。満直は関東府ないし奥州府の主帥たるを自任して充行(あてがい)権を行使したものであろう。白川氏と石川氏は小野保(おののほう)・白川氏領宇多荘(うだのしょう)(浜通り北半)にも戦う。守屋祐国(すけくに)がその合戦に関係する中津河陣への満直の使者となった(郡128)・(8)。
注 (8)石川家文書『石川町史三』二一一五一・一六一