4 満貞・満直の滅亡

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 1438(永享(えいきょう)10)年8月、将軍義教(よしのり)(義持の弟)が安積氏祐(うじすけ)・田村遠江守(とおとうみのかみ)等南奥諸氏に、満直に従って関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(のりざね)を援けるべきことを命じた(郡174)。憲実は幕府との融和を諫言して持氏との対立が深まったのである(永享の乱)。10月、満直は鎌倉に進撃して、後花園(ごはなぞの)天皇の「錦御旗(にしきのみはた)」を預かる将となった(9)。翌年2月持氏・満貞を永安寺(ようあんじ)に自決せしめるの一員となる(郡176)。

 40(永享12)年3月、持氏の遺児安王丸(やすおうまる)が挙兵して、下総国(しもうさのくに)(千葉県・茨城県南部)の結城城に籠城するに至る(結城合戦)。満直が葦名・白川氏等に結城城攻めを命ずるに(10)、7月安積氏祐・石川持光・畠山盛宗(もりむね)等「郡々面々(ぐんぐんのめんめん)」に攻め殺された(郡184)。

 奥上(おくのかみ)(南奥)の領主等は幕府と関東府の間を巧みに去就し、満貞と満直をもおのれの自立を強め政治的立場を高めるに利用し、無用となって滅亡せしめたのである。

(高橋明)

 注 (9)「看聞日記」永享十年十月十日条 (10)成簣堂文書『白河市史五』二Ⅰ五〇五