1537(天文(てんぶん)6)年12月、田村隆顕(たかあき)と蘆名盛氏(もりうじ)(盛舜の子)が攻守同盟を結んだ(郡221)。安積郡への侵出を図(はか)るに伊達氏を警戒したものと思われる。
41(天文10年5月、伊達稙宗(たねむね)・晴宗(はるむね)父子が安積・田村氏間の和睦を仲介し、田村義顕(よしあき)・隆顕(たかあき)父子の証文を取り付けた。それは、前田沢と今度の合戦で「責落(せめおと)」されまた「自落(じらく)」した城地の伊達氏帰属を認めるとするものであった。この以前田村氏が前田沢等諸村に侵出していて、安積氏惣領の安積祐重(すけしげ)を伊達氏が援(たす)けて戦い、みずからの安積郡進出を実現したのである。富岡八郎・中津川千々代丸(ちぢよまる)等に不利益を加えぬことも誓約される。八郎と千々代丸は伊達氏に従って田村氏に抗した。千々代丸は本領中津川に加えて田原谷(小野町)おそらくは細田(田村町)をも領有する有力領主である(郡225~227)・(1)。隆顕は晴宗に友好を約し(2)、その妹を夫人に迎える。
注 (1)三春領古絵図『三春町史7』六一 (2)伊達文書『三春町史7』四20二