3 安積祐重の離郡

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 1542(天文11)年6月、伊達稙宗と晴宗の間に一家の経営方針をめぐる内訌(ないこう)が発生し、中・南奥及び羽州南半内陸部の諸氏を巻き込む大乱に発展した(伊達氏天文の乱)。

 翌43(天文12)年5月、安積祐重が晴宗岳父(がくふ)の岩城重隆(しげたか)に率いられて稙宗を懸田(かけだ)城(伊達市霊山)に攻めた(3)。祐重の出馬は2、3月頃と思われるが(4)、留守となった安積郡に、4月稙宗を支持する田村隆顕が晴宗党の蘆名盛氏の兵と戦い、10月これを中山に撃退して下飯津(下伊豆)・前田沢・小荒田(小原田)・郡山・荒井・名倉を制した(郡230)。

 祐重の居館はこの6村のいずれかにあったのであろう、祐重は晴宗から小手保羽田郷(おでのほうはねだのごう)(川俣町)の内を与えられて留(とど)まったのである(5)。帰館が困難となった根本原因は、自立性をいや増す庶家・村落領主を再編組織して家臣とするに遅れ、支える勢力に乏しかったことに求められよう。

 7月、晴宗党となった椛倉相模守(かばのくらさがみのかみ)が降参し、主君の隆顕が容(い)れてその所領を安堵(あんど)した(郡228)。椛倉氏は蔵本(くらもと)と呼ばれる金融土倉業者にして、下行合内等をも買得領有し(郡206・220・222)、修験大祥院(しゅげんだいじょういん)を営む土豪である(郡188)。相模守は前年来、紀州(和歌山県)の熊野新宮の神領を支配する新宮城主堀内氏善(うじよし)の所に遁れていた(6)。相模守の降参後の処遇は隆顕に従う福原大蔵大輔(おおくらだいふ)の懇望を容れたものであった(郡299)。


法印増堅熊野先達職安堵状(青山文書より・東京大学史料編纂所所蔵影写本)
蒲倉の大祥院は1456(康正(こうしょう)2)年に守山社湯上坊がかつて所有した熊野参詣先達職(せんだつしき)を買得した(郡188)。本文書はその先達職が1571(元亀(げんき)2)年に塩松(しおのまつ)(東安達)に及んだことを示す。大祥院は田村荘の熊野新宮への貢納にも関係して田村氏と結び、その勢力伸長に伴ったものである。78(天正6)年には「出羽奥州両国輩」の大峯(おおみね)先達職を獲得するに至る(郡312)。大峯は修験道の中心道場である熊野から吉野に達する金峯山(きんぷせん)をいう。


 45(天文14)年11月、隆顕は御代田彦太郎に下枝村の内大窪・松之内・行合半内知行分を充行(あてが)って(郡232)、晴宗党となった御代田伊豆守(いずのかみ)・下枝治部大輔(じふだいふ)への戦いをけしかけた。

 46(天文15)年5月には、隆顕が郡山又五郎に「なくらの地」を充行って「彼名跡(かのみょうせき)」を立てることを命じた(郡234)。「彼名跡」は安積氏のそれである可能性が考えられる。

 6月初め、田村隆顕・畠中義氏(よしうじ)・塩松尚義(しおのまつひさよし)に攻められて、福原城等10ヵ城が自落し、安積郡の過半の村落領主が降伏した。下枝治部大輔が岩城に遁れる(郡235)。

 8月、岩城兵が安積郡に入った(郡237)。その支援を受けて福原城主等が復帰したものであろう、翌47(天文16)年2月福原城等10ヵ城が再び隆顕・義氏・尚義に攻め取られた。中村城主(片平町)中村将監(しょうげん)も自陥した(郡239)。

 6月、岩城重隆と蘆名盛氏が安積郡に出馬した(郡241)。これを機に戦局は逆転し、全戦線において晴宗方有利の展開となる。翌48(天文17)年9月、稙宗・晴宗父子は和睦した。晴宗は正式に伊達家当主となって米沢城に移り、稙宗は円森(まるもり)城(宮城県丸森町)に退隠する。

 伊達氏の内訌は終息した。しかしながら、田村・蘆名氏等諸氏はこれを好機として自らの勢力圏の拡大を図ったのであり、抗争はさらに激化する。

(高橋 明)

注 (3)「伊達正統世次考」天文十二年五月二日条 (4)遠藤白川文書『福島県史7』二49六三・ 岡本文書同二8一一一 (5)晴宗公采地下賜録『桑折町史5』二三四四 (6)青山文書『三春町史7』四9四六