「会津塔寺八幡宮長帳(あいづとうでらはちまんぐうながちょう)」1550(天文(てんぶん)19)年の裏書(うらがき)に、「6月2日、やかたの御馬出申候(おんうまだしもうしそうろう)、なかちにたち申候、たむらいつれも御てに入申候」と記される(郡247)。蘆名盛氏(あしなもりうじ)が湖南の中地に出馬して指揮し、安積郡の田村領のほとんどを奪い取ったのである。
翌51(天文20)年7月、盛氏と田村隆顕(たかあき)は畠山尚国(ひさくに)と白川晴綱(はるつな)の仲介によって和睦して(郡252~254)、郡山・小荒田(小原田)・下飯津島(下伊豆島)・前田沢が蘆名領となり、田村旗下(はたした)から蘆名方に転じた村落領主はそのままとされた。旗下(麾下(きか))は領主権を維持して軍事的に従属するをいう。名倉・荒井が盛氏に従って戦った二階堂照行(てるゆき)に付けられ(郡252~254)、安積郡に残る田村領は福原村のみとなる(郡255)。
小手保羽田郷(おでのほうはねだのごう)に在(あ)る安積祐重の帰還に備えて、その名跡(みょうせき)を隆顕の管理とし、盛氏が隆顕次子を名代(みょうだい)に据(す)えて自分の勢力圏の片平城に住まわせた(郡252~254)。「積達古館弁(せきたつこかんべん)」が同城の「最初の本主」とする「伊藤大和守(やまとのかみ)」がその人である可能性が考えられる(郡481)。安積氏名代であれば、安積大和守を名乗るのが自然と思われる。