1559(永禄(えいろく)2)年2月、蘆名勢が大槻行綱(ゆきつな)を援(たす)けて田村隆顕と戦った。行綱の臣佐柄勘解由(さがらかげゆ)と大河原弥平太(やへいた)が主君に叛(そむ)いて隆顕に内通したのである。打ち負けた隆顕は鉾(ほこ)を転じて岩瀬郡に攻め入り、今泉城を二階堂照行(てるゆき)から奪い取った。隆顕の叔父月斎(げっさい)(顕頼(あきより))がその城代となる(郡260)・(1)。
62(永禄5)年、田村月斎が大槻城を攻め取った(郡267)。月斎は「守谷・富岡・鍋山・八幡・川田・只野・大槻すべて」を「押領(おうりょう)」したとされる(郡481)。
64(永禄7)年3月、岩城親隆(ちかたか)(重隆の養嗣子)が安積郡南辺において月斎の兵と戦った(2)。親隆は伊達晴宗(はるむね)の長男に生まれ、その同腹の弟である伊達輝宗(てるむね)21歳が義兄の二階堂盛義(もりよし)(照行の養嗣子)を援けて出兵し、蘆名氏と戦って長沼城を奪い取ってしまった。親隆は輝宗を諫(いさ)めて長沼城を返還することを勧めつつ、輝宗の要請に応じて出馬し、田村氏がこの機に乗ずるを牽制したものである。親隆は「森山之地」を焼き払い、行合・大善寺・金屋の「小屋々々」を「打散」じ、「其外(そのほか)在々所々」に放火した(3)。次いで高蔵城に押し入り、御代田に移る(4)。抗争は輝宗が長沼城を返却して和睦し、妹を養女分として蘆名盛興(もりおき)(盛氏の子)に嫁(とつ)がせて終わった。盛義は盛氏に降参して、子「二郎」7歳(後の盛隆(もりたか))を証人に差し出す(5)。
注 (1)歓集直山章『仙道田村荘史』216ページ・(6) (2)岩城文書『福島県史7』二10七二 (3)岩城文書『福島県史7』二10三六 (4)岩城文書『福島県史7』二10三三 (5)伊達文書『福島県史7』二99一二二・「蘆名家由緒」