3 田村氏席巻

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 1574(天正(てんしょう)2)年春、田村清顕(きよあき)(隆顕の子)が「大槻の地宿(ちやど)・外城(とじょう)取破、幷(なら)びに成田・河田の外構(そとがまえ)、其外郷村相残らず放火」して一旦引き揚げ(郡282)、この後成田・川田・小原田・富田を制した(郡283)。大槻と川田は蘆名領に復していたものであろう。一連の合戦において、蘆名氏将兵とともに「大つき左馬助」・「い藤新蔵人」・「ひわた殿」・「富田新太郎・同源三」が戦死する。福原が会津方「八百人」討ち死にの戦場となり(郡288・291)、翌75(天正3)年秋清顕は大槻を攻めた(郡294)。

 76(天正4)年清顕が郡山・福山・福原に盛氏を撃破して片平村まで「切取」った。郡山等はすでに田村領となっていて、郡山頼祐(よりすけ)・福原内蔵(うちつくら)・高倉治部(じぶ)が清顕に従って戦う。伊藤(安積)大和守は片平城を明け渡し、清顕に従った安達東根の宮森城主大内義綱(よしつな)の次男助右衛門親綱(ちかつな)が新たなる城主となって片平を名字とする(6)・(郡302・303)。ここに安積氏名代は滅亡した。

 8月、蘆名氏が安子島城を奪還した。盛氏の舎兄氏方(うじかた)が松井(大槻町)に住む富田大学に、さらに安積郡の多くを制したならば歓談あるべきことを伝えた(7)。氏方は幼名吉祥丸(きっしょうまる)の時富田村に育ったとする説がなされる(8)。

 盛氏は河内城をも攻め取った。盛氏は「義継(よしつぐ)」の命乞(いのちごい)を容(い)れて出城を許し、城を破却するが(郡298)、二本松城主畠山義継が侵攻していたのである。

(高橋明)

(上)大槻城 柳田和久氏作図
本城は阿子ヶ島城とともに、蒲生氏郷(がもううじさと)の初期にその支城となった。政宗から氏郷へ二本松(西安達)を打ち渡すことが遅れて、そこに残る伊達軍を警戒するための軍事拠点であった(「氏郷記」)。その時、相応の修築が加えられたことが考えられる。
(下)外堀跡(壇経川)


注 (6)「仙道会津元和八年老人覚書」 (7)富田文書等『福島県史7』二104一・128一三 (8)「富田家年譜」