1 佐々川合戦

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 1577(天正(てんしょう)5)年末、蘆名盛氏(あしなもりうじ)が「守山を限りに悉く手裏(しゅり)に入れ」た(1)。しかし、まもなく撤退したものと思われる。

 79(天正7)年正月、富田新九郎が田村氏に服属して(郡314)、「片平之地」を所望するに、清顕(きよあき)は勝ち取れば与えることを約束した(郡315)。片平親綱(ちかつな)は蘆名方に転じたのである。親綱の兄である安達東根の小浜城主大内定綱(さだつな)が二本松城主畠山義継(よしつぐ)と連合して清顕と戦う(2)。この年の冬、清顕は一人娘の愛(めご)姫11歳を伊達輝宗(てるむね)の嫡男政宗(まさむね)13歳に嫁(とつ)がせた。四囲の敵に対抗するためである。

 80(天正8)年2月、蘆名盛隆(もりたか)(盛氏養女の盛興(もりおき)後室の継夫)が常陸国(ひたちのくに)(茨城県)の太田城主佐竹義重(よししげ)とともに「田村口」に出馬した。義重に従属する白川不説(ふせつ)(義親(よしちか))も出馬する。そして一定の戦果を上げ、閏3月には納馬した(3)。

 7月初旬、田村清顕が二階堂家中の佐々川城主を調略した(郡322・323)・(4)。この月下旬、二階堂盛義(もりよし)と佐竹勢が佐々川に着陣し、石川一族の大寺清光(きよみつ)も盛義を支援して出馬する。清顕は守山・御代田に軍勢を配した。蘆名盛隆は前月に盛氏60歳を看取(みと)って出馬し、富田に向かって張陣した(郡305)・(5)。

 9月8日、蘆名・二階堂・佐竹勢は佐々川城に夜襲をかける。二階堂重臣の箭部義政(よしまさ)・須田盛秀(もりひで)が清光に急ぎの合流を要請した。盛義は湯治のため離陣していて(郡306)、翌9年7月に死没する。盛義は輝宗38歳のじきの姉を夫人として、それほど年齢の隔たりがあるとは思えない。盛義は戦傷もしくは病を得たのである。

 12月27日、清顕が石川一族の蓬田城主奥山利光(としみつ)に和睦の結果によって離城せざるを得なくなった場合は田村荘内に所領を与えることを誓約した(6)。戦況の全体は蘆名・二階堂・佐竹方有利に展開したものと思われる。


佐々川城と御代田城
佐々河城跡が位置する小字名「高瀬」は浅瀬と同義にして、阿武隈川の渡渉点となる。

 

注 (1)上杉輝虎公記念所収浜崎文書『石川町史三』二一三五一 (2)首藤石川文書『福島県史7』二62九 (3)金上文書等『新潟県史資料編5』三二〇一・三二〇二・『福島県史7』二142一 (4)新編会津風土記所収文書『福島県史7』二126八二 (5)首藤石川文書『福島県史7』二62一四 (6)蓬田文書『三春町史7』四7二