2 御代田城攻防戦

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 1581(天正9)年2月、佐竹義重に従属する岩城常隆(つねたか)(親隆の子)が田村氏を攻めた(7)。義重と白川不説も出馬して、盛隆等とともに御代田城を攻撃する(郡330)・(8)。御代田三河守(みかわのかみ)・正直土佐守(とさのかみ)等が義重に内通した(郡336~338)。

 伊達輝宗が田村清顕の窮地を救うべく、相馬義胤(よしたね)と下総国(しもうさのくに)(千葉県・茨城県南部)の結城城主結城晴朝(はるとも)を誘って和睦仲介に乗り出した(9)。義胤は輝宗と対立しつつ清顕とは友好関係にあり、晴朝は義重とともに相模国(さがみのくに)(神奈川県)の小田原城主北条氏政(うじまさ)の攻勢に苦しんでいた。盛隆は初め和睦を拒絶するも(郡334)、まもなく容(い)れる。和睦を望む義重の意を汲(く)んだことが考えられよう。


佐竹義重感状(秋田県公文書館所蔵「秋田藩家蔵文書・城下諸士文書」より)
1581(天正9)年の「御代田城際(しろぎわ)における」合戦が述べられる。

 

注  (7)新編会津風土記所収文書『福島県史7』二126一九二 (8)秋田藩家蔵文書『茨城県史料中世Ⅴ』家蔵文書四三四・白川義親書状取意文「性山公治家記録」天正十年四月九日条 (9)遠藤家文書『伊達氏重臣遠藤家文書・中島家文書~戦国編~』23・26・『福島県史7』二99一四二~一四四