3 今泉城の返還

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 4月17日新田(にいだ)城(須賀川市仁井田)が「明ケ渡サ」れ、翌18日御代田城の将兵が出城して(郡340)、関係諸氏の「惣無事」が成立し(郡341)・(10)、田村方の「岐之城々(えだのしろじろ)123ヵ所」が二階堂氏に「明渡(あけわた)」された(11)。この年12月、岩瀬郡の今泉・滑川・畠田半村・上守屋と安積郡の守屋が二階堂家臣浜尾駿河守(するがのかみ)に充行(あてが)われる(12)。

 「仙道会津元和八年老人覚書(せんどうあいづげんなはちねんろうじんおぼえがき)」は二階堂氏と盛隆等の主目的は今泉城の奪還にあったとし、「御代田と申し候小城(こじろ)を手強(てごわ)に責(せ)」めるに、清顕が「和談を入れ、懇望申され候は、今泉七郷の分は須賀川へ返し申すべく候間、御代田を御責(おんせ)め候事、御免(ごめん)候様にと」(原和洋漢文)申し入れ、「今泉七郷」が二階堂氏に返還されて「御代田の陣」が引かれたとする。

 1584(天正12)年4月、盛隆が「田村表(たむらおもて)」すなわち田村方面に出馬し(郡346)、常隆も出馬した(13)。和睦は破綻して緊張は続く。

(高橋明)

注 (10)遠藤家文書『伊達氏重臣遠藤家文書・中島家文書~戦国編~』10 (11)伊佐早文書『福島県史7』二125二〇 (12)蘆名盛隆領知判物『長沼町史1』300ページ写真27 (13)岩城常隆書状取意文「性山公治家記録」天正十年四月十一日条