1585(天正(てんしょう)13)年9月、伊達政宗(まさむね)が田村清顕(きよあき)とともに大内定綱(さだつな)を攻め、会津に駆逐して塩松(しおのまつ)(東安達)を制した。次いで定綱を援(たす)けた畠山氏を二本松城に攻める。定綱の娘が畠山国王丸(くにおうまる)に嫁(とつ)いで、両者は同盟関係にあった(1)。
11月、国王丸を掩護すべく、佐竹・蘆名・二階堂・石川・白川・岩城勢が須賀川に集結し、今泉を経て富岡に「打ち入り」(郡350)・(2)、すでに伊達氏に服していた城々なかんずく中村城(片平町)を攻め落とし、前田沢兵部(ひょうぶ)を味方に転じさせて「前田沢の南の原」に張陣し、「本宮の西太田原(青田・荒井)」に伊達勢を攻めた。政宗は丘陵上の観音堂の本陣が「押下(おしさげ)られ」る敗軍に、翌日の本宮籠城戦を決心したところ、早朝に連合勢は撤退した(2)。総大将の小野崎義政(よしまさ)(佐竹義重の叔父)が「奴僕(どぼく)」に弑(しい)されたためとされる(3)。政宗「万死一生ノ戦」であった(4)。
翌年7月二本松城は無血開城して、政宗は二本松(西安達)をも領することとなる。
太田原合戦場 大玉村伊藤留夫氏撮影・提供
本宮市青田の国道4号線花掛交差点東側の東北病院屋上から撮す。左後方に人取橋。伊達成実著「政宗記」はこの合戦を「本宮戦」と称し、自らが敵兵を南方の瀬戸川にかかる人取橋まで追い散らした局面を「人取橋合戦」と呼んだ。「貞山公治家記録」が茂庭左月の人取橋たもとにおける奮戦と討ち死にをいうは事実にない。大鐘義鳴著「相生集」が「太田原合戦」とするに従う。
注 (1)「仙道会津元和八年老人覚書」 (2)「政宗記」 (3)「上杉家譜」義重 (4)「戸部一閑覚書」