2 矢沢・玉井合戦

45 ~ 46

 1588(天正16)年2月、大内定綱が片平・安子島・高玉の兵を率いて、苗代田の古城に逃れ住んでいた地下人(じげにん)等「百余人」と守将の本内主水(もんど)を討ち殺した。定綱は蘆名氏の麾下(きか)に属するも扶持(ふち)を与えられず、弟の親綱(ちかつな)を頼って片平村に在(あ)った(2)。安子島治部(じぶ)はいつの頃からか田村氏の麾下に属して来たが、2年前に清顕(きよあき)死して、田村氏を従えるに至った政宗に叛(そむ)いたのである(郡379)。高玉太郎左衛門は畠山氏旧臣であるが、蘆名氏に「一味」して政宗に挑(いど)む。定綱等は奥(宮城県北部以北)の大崎・黒川氏との合戦における伊達勢の大敗に乗じたのであった(2)。

 3月、高玉城主高玉太郎左衛門と旧玉井城主玉井日向守(ひゅうがのかみ)及び旧太田城主太田主膳(しゅぜん)が玉井城を攻撃するに、日向守以下三百余人が返り討たれた。太郎左衛門等が矢沢道から玉井城に忍び寄って昼這(ひるばい)をかけるに、政宗への服属を望む定綱が密(ひそ)かにこれを二本松城主の伊達成実(しげざね)に通報したのであった。昼這は敵城近くに身を潜(ひそ)め、出て来た者を討って逃げ、追って来た敵をまた隠れ伏した兵が討つということを繰り返す戦法である。(2・5)。

 成実が定綱を従えるの利を政宗に進言した。それは、定綱が塩松に残る旧臣・地下人等を指揮し、仙道(中通り)の諸氏に呼びかけて、まもなく混乱が表面化するであろう田村氏を攻めるの怖れをなくし、片平親綱をも従えるならば、片平村北の安子島・高玉を攻略し得て、「高倉・福原・郡山は元来引続き御方(みかた)なれば」、その後の「軍(いくさ)もなしよからん」とするものであった。高倉義行(よしゆき)・福原内蔵頭(うちつくらのかみ)・窪田某・郡山頼祐(よりすけ)は田村氏に従い、今政宗の旗下(はたした)となっている(2)。

 政宗は定綱に保原・懸田など数ヵ村の所領を充行(あてが)い(郡383)、起請文(きしょうもん)を与えて臣従せしめた(郡387)。政宗はこれにより、安積全郡を掌握し得ると確信する(6)。


雪村庵
希代の画僧雪村周継が田村氏を庇護者として過ごした晩年の住居である。三春高乾院僧一元紹碩(いちがんしょうじゃく)により1658(明暦4)年に再興された。雪村は80歳を過ぎて「瀟湘(しょうしょう)八景図屏風」を描く。

 

注 (2)「政宗記」 (5)伊達文書『福島県史7』二99一八六 (6)郡山家文書『仙台市史資料編10』244