田村清顕(きよあき)が1586(天正(てんしょう)14)年11月に「頓死(とんし)」した。清顕に嗣子(しし)なく、政宗(まさむね)・愛(めご)姫に授かる子を迎えるに、それまで清顕後室(こうしつ)が「城代(じょうだい)」を務(つと)め、政宗の「意ヲ得テ、政務ヲ執行」することとなった(1・2)。しかしながら、後室の心中は実家の甥相馬義胤(よしたね)を恃(たの)むにあった。家中は二分して、義胤と政宗の交戦に発展する。
注 (1)「政宗記」 (2)「貞山公治家記録」
1 田村家中の抗争
田村清顕(きよあき)が1586(天正(てんしょう)14)年11月に「頓死(とんし)」した。清顕に嗣子(しし)なく、政宗(まさむね)・愛(めご)姫に授かる子を迎えるに、それまで清顕後室(こうしつ)が「城代(じょうだい)」を務(つと)め、政宗の「意ヲ得テ、政務ヲ執行」することとなった(1・2)。しかしながら、後室の心中は実家の甥相馬義胤(よしたね)を恃(たの)むにあった。家中は二分して、義胤と政宗の交戦に発展する。
注 (1)「政宗記」 (2)「貞山公治家記録」