2 六百騎弱VS八千余騎

47 ~ 48

 1588(天正16)年、劣勢の義胤は蘆名義広(よしひろ)に安積郡出馬を要請した。義広が応じて、実父佐竹義重(よししげ)と白川不説(ふせつ)(義親(よしちか))に同陣を働きかけた(3)。不説の跡(あと)は義広14歳の最初の子が継ぐ約束となっている。

 閏5月24日、石川昭光(あきみつ)が義重出馬ある事を政宗に知らせた。昭光は義重によってその名跡(みょうせき)を義広に移され名代(みょうだい)の地位におとしめられて以来、生家の甥政宗に通じて来た。同じく佐竹に従属する岩城常隆(つねたか)と二階堂氏家老の須田美濃守(みののかみ)も知らせる。常隆23歳の夫人は須賀川城主盛義後室の娘である(4)。

 6月8日、須賀川城に入った義重が、翌々日の小原田張陣を昭光に知らせて同陣を指示した(5)。

 11日、義重・義宣(よしのぶ)(義重の子)・義広・不説・昭光と二階堂・岩城兵の連合軍「八千余騎」が安積郡に入った(1)。政宗は「大槻表」へ進陣との知らせを受けて安積宿(あさかじゅく)(高倉城麓の宿町)また本宮への進撃と判断し(6)、翌12日「本宮のうへの山」杉田に備えた(1)。この日、佐竹・会津勢が「安久津」(富田町)に兵を出して伊達勢が撃退する(7)。

 14日、連合軍は郡山の「西の台へ築山(つきやま)を二つ築き、要害の如くかまへ、小旗を立(たて)、町を見おろし鉄砲を打」ちかけた。これにより政宗は、16日福原の窪田境に陣屋を構える。陣場は「水ひたしろ」の稲田を前に当て、福原館に退き易くして選ばれた。郡山城掩護をのみ目的とする布陣である。「原続」きの山王山筋を義重自らが攻め来るなどするに、政宗従弟成実(いとこしげざね)が山王山に備え、「八尺余り」の「土手を二重」に築き、堀を掘り廻らせて防備を固めた。


郡山城(稲荷館) 垣内和孝氏作図(「郡山市の中世城館八」『郡山地方史研究第42集』)
Ⅰ曲輪が主郭。城館の西に町があった。町の方が高いのによれば、まず町が出来て、のち城が築かれた可能性が考えられる(広長秀典氏ご教示)。郡山氏は諏訪館から移るか(「相生集」)

 伊達方「六百騎」弱の無勢にして、交戦は戒められる。小競り合いは続き、互いにそれぞれの陣場・城館に深夜密(ひそ)かに忍び寄り、明け方不用意に出て来た者を討ち取る草調儀(くさちょうぎ)を行った。守山・木村・「あくと」(富田町)の防備も固められ、守山・笹川・御代田からをも含む伊達方の草調儀は高玉・石筵両城、そして岩瀬郡の越久に及ぶ。

 しかるに7月4日、蘆名の将長沼城主新国貞通(さだみち)が逢瀬河畔に接近するに、成実・片倉景綱(かげつな)が兵を出し深追いして、両軍総出の合戦となった。戦闘は午前8時頃から午後2時頃迄に及び(1・7)、伊達方「五十余人」(郡409)ないし「八十余騎、歩卒一千余」(8)、連合軍「五十余人」(郡406)ないし雑兵合わせて二百余人が討ち取られた(郡409)。政宗とともに本宮城に在(あ)った伊藤重信(しげのぶ)が駆け付け、両軍の間に分け入り引き離さんとして戦死する。重信は「軍(いくさ)の評定衆(ひょうじょうしゅう)」11人の一人となり、「惣軍の団扇(うちわ)を預」かっていた(1)。重信52歳は、5歳の時父祐重(すけしげ)に伴われて小手保(おでのほう)に退転し、元服してのち安積氏の名跡を放棄して伊藤を名乗り、政宗に近仕して来た(9)。成実は晩年、21歳の「若輩心の愚案」であったと述懐する(1)。

 政宗は郡山頼祐(よりすけ)・延祐(のぶすけ)兄弟が連合方に転ずるを恐れた。郡山城に馬上三十余騎、鉄砲兵200人を入れ、延祐に川田及び出羽国長井荘内諸村等を充行(あてが)う。連合方は調略を主として(郡401・404・405)、郡山城を力攻めすることはなかった。


伊藤重信の碑
1690(元禄7)年9月、仙台藩4代藩主伊達綱村(つなむら)(政宗の曾孫)の命を受け、伊東重良(しげよし)・祐栄(すけひさ)父子が逢瀬川南辺の戦死の地に建てたもの。戦死の地はもとは北縁。川筋が変わる(「伊東家系譜」)。現在富久山町久保田の山王山に移されて立つ。

 

注 (1)「政宗記」 (3)瀬谷文書『白河市史五』二Ⅰ九九一 (4)水府志料所収文書『いわき市史8』三112二 (5)『千秋文庫所蔵佐竹古文書』176 (6)星野敏彦氏所蔵文書『仙台市史資料編10』286 (7)「伊達家日記」 (8)秋田藩家蔵文書『山形県史資料編15上』三1一33 (9)「晴宗公采地下賜録」・「伊東家系譜」