政宗と岩城常隆・石川昭光の連絡は継続され、7月2日2人が和睦仲介を始めて、10日に成立した(2・7)。それは、郡山の伊達方帰属を認め、前田沢と部谷田(日和田)を付け、富田・成田は蘆名・二階堂方にとどめるとするものであった。政宗に抗する大越顕光(あきみつ)の身柄は岩城に移され、その身代(しんだい)の処分は政宗の所存に委ねられた。相馬義胤も和睦に加わる(郡411・412)・(10)。
21日、双方が陣払いした。政宗は宮森城に移り、8月5日三春城に入って田村梅雪斎(ばいせつさい)(顕基(あきもと)。清顕の叔父)等相馬派を追放し、田村名跡を掌握し清顕甥宗顕(むねあき)を名代にすえて支配下に置く(1・11)。6日守山の太元明王堂(だいげんみょうおうどう)の別当・学頭が酒・食籠(じきりょう)等を進献し、牛縊親子が出仕した。この後笹川城主須田佐渡守(さどのかみ)・牛縊兄弟・下枝衆・鬼生田総右衛門父子・高倉義行(よしゆき)・郡山摂津守(せっつのかみ)(頼祐の父)が謁見し、総右衛門・同古月齋(こげつさい)(総右衛門父ヵ)・郡山頼祐・福原内蔵頭(うちつくらのかみ)等が雁・生雉・目赤鶴・鶉(うずら)等を進献する(7)。
伊達政宗過所黒印状 鹿野誠氏提供
伊達領内仙道・奥通の諸関所に山本伊勢守の関銭免除を命じた証文。伊勢守の戦功に対する恩賞である。伊勢守が伊勢国の出身であれば(郡417)、郡山の町を拠点として、南は京・大坂、北は奧の一関方面迄をも商圏とする豪商であったことが考えられる。今泉伊豆もこの町に住む(郡六55)。
注 (1)「政宗記」 (2)「貞山公治家記録」 (7)「伊達家日記」 (10)亘理家文書『仙台市史資料編10』300(11)大内家文書『仙台市史資料編10』391