1 片平・横沢・猪苗代氏

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 1589(天正(てんしょう)17)年2月、片平親綱(ちかつな)が二本松城主伊達成実(しげざね)と堀之内に会見して伊達氏への服属を申し入れ(1・2)、横沢三郎も服属の意を示した(郡429)。共に大内廉也斎(れんやさい)(定綱(さだつな))の工作によるものであった。政宗は親綱に富田・只野(ただの)他を充行(あてが)い(郡428・431)、廉也斎にも安子島を充行う(郡429)。これらはこの時蘆名領である。

3月中旬、猪苗代盛国(もりくに)が政宗に通ずる(郡433)・(3)。盛国は、4年前の政宗家督となって緒戦の桧原侵攻時に服属を約束するも、嫡男盛種(もりたね)が反対して成らず、前年に盛種を駆逐して念願を果たした。

 4月15日、岩城常隆(つねたか)が小野口に出馬した(郡435)。親綱等の動きに蘆名氏と申し合わせてのものであり(郡432)、大越顕光(あきみつ)と小野城に在(あ)る田村梅雪斎(ばいせつさい)顕基(あきもと)等を援(たす)けつつ田村領を攻め取らんとするものであった(4)。顕光は身を守るため伊達氏に内通するが発覚し、岩城に拘引されて殺される(2)。

 23日、政宗が大森城(福島市)に入り(1)。会津勢も須賀川に着陣した(郡437)。翌24日、親綱が只野を攻めて二十余人を討ち取り、「所々村押(むらおし)」すなわち掃討を行い(5)、26日には高玉と安子島に草調儀(くさちょうぎ)を行う(郡438)・(6)。


注 (1)「伊達家日記」 (2)「政宗記」・「会津旧事雑考」 (3)『歴代古案』一二七八・一二八〇 (5)引証記八『仙台市史資料編10』414 (6)大内家文書『仙台市史資料編10』415