2 高玉から摺上へ

49 ~ 50

 5月4日、政宗が安子島城を攻めて「町構(まちがまえ)より二・三の曲輪(くるわ)」を打ち破り、阿久ヶ島治部(じぶ)の出城要請を容(い)れて猪苗代に奔(はし)るを許した(郡422)。

 翌5日高玉城を攻める。城主高玉太郎左衛門初め「会津之警固五十余騎」を含む「三百余人」を討ち取り、「其外仁(二)千余人」、「女房・童・馬牛訖(まで)」撫で切りにした(郡444)・(7)。高玉城は会津口に位置して、蘆名家中の戦意を挫(くじ)かんとしたものである。

 7日、蘆名義広(よしひろ)が御代田城を攻めた(8)。政宗は一転して相馬領北辺に出馬し、常葉・舟引等を攻める義胤(よしたね)を牽制する(9)。

 23日、廉也斎・盛国・三郎が会津侵撃を政宗に進言した。蘆名家中は佐竹義重(よししげ)の不出馬に不信を募らせ、義広を返すとする混乱に陥っていることを知らせたのである(郡447)。

 6月1日片倉景綱(かげつな)と伊達成実(しげざね)が猪苗代城に移り、宿老原田宗時(むねとき)が桧原城(北塩原村)に向かった。宮城郡・桃生郡深谷の鉄砲隊が土湯峠を越える(1・2)。

 2日、郡山頼祐(よりすけ)が本宮城に参上して政宗に面謁(めんえつ)した。この日頼祐は小原田に昼這(ひるばい)を行って2人討ち取る(1)。義重・義宣(よしのぶ)父子が須賀川城に入り(郡452)。3日、義広は「猪苗代の一乱」を知って黒川城に戻る。4日、政宗は反対する評定衆(ひょうじょうしゅう)等を欺いてまでして夕刻安子島を発(た)ち、本軍には「坪下路(つぼおろしみち)」(楊枝峠越)を用いさせ、みずからは「土湯(つちゆたけ)」(母成峠)を越えて深夜零時頃猪苗代城に入った(郡453)・(2)。

 五日「四時分(よつじぶん)」すなわち午前10時頃、攻め上がって来た義広を、政宗は摺上(すりあげ)(福島県道7号猪苗代塩川線猪苗代・磐梯町境付近)に撃破して攻め下る(郡455)。義広初め佐竹連合方のいずれもが政宗の猪苗代入城を知るはなく、義広支援は思うべくもなかった。


天正17年5月6日白石右衛門(白石宗実)宛て伊達政宗書状(登米市教育委員会所蔵)
3行目に「城主為始三百余人討取、女房・童・馬牛訖撫切候」とみえる。「討取」は首を取り、「撫切」は斬り捨てるをいう。


注 (1)「伊達家日記」 (2)「政宗記」・「会津旧事雑考」 (7)引証記九『仙台市史資料編10』424 (8)嶺崎家文書『仙台市史資料編10』422 (9)片倉代々記三等『仙台市史資料編10』426・429