3 大平と下枝の合戦

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 6日義重が守山を攻め、8日には義宣が大平城を攻め取る(1・10)。中地治部(じぶ)が廉也斎・親綱・三郎等の連日の攻撃についに屈服し、16日黒川城に参上して政宗に降参した。24日義重が片平を攻める。

 7月4日常隆が下枝城に攻撃を加えて引き上げるところを、下枝衆が襲って田村清康(きよやす)(清顕の従兄弟(いとこ))等五十余騎等104人を討ち取った。5日親綱が多田野城を攻めた。20日義重と常隆は打つ手を失って撤退し、まもなく義宣も篠川から退く(1・2・11)。

 8月5日、郡山頼祐が「小原田殿」を討ち取った。11日、伊達に降参した大槻城主が富岡城に草調儀を行う(1)。

 10月21日政宗が片平城に入って須賀川城主二階堂盛義(もりよし)後室(政宗の伯母)に降参を促した。岩瀬郡西方(にしかた)の二階堂家臣は大半伊達方に内応し、浜尾宗泰(むねやす)は本領たる「安積守や」の内に「九間在家」を加恩として充行われ(12)、守屋俊重(とししげ)は本領の「守屋百七十五貫文」を安堵(あんど)された(13)。26日に佐竹・岩城勢も籠もる須賀川城は攻め落とされた。「小荒田隠岐(おき)」が降参して「本領小荒田の内、只一郷」の領有を許される(2)。隠岐は小原田城主の父親にして、須賀川城に逃れていたものと思われる。

(高橋明)

横沢館と中地氏の小倉山館
「新編会津風土記」は鶴山館を「伊藤氏ノ築ク所ト云」とし、「天正中伊藤盛恒(中地治部をいう)」が峯仙山において横沢三郎と戦ったとする「里民ノ説」を記す。三郎等は権現山に拠って治部を攻めたとする推測がなされる(広長秀典「郡山市の中世城館六」『郡山地方史研究第39集』)。


注 (1)「伊達家日記」 (2)「政宗記」・「会津旧事雑考」 (10)浅川家文書等『石川町史三』二一四五三・『茨城県史料中世編Ⅳ』四二・『福島県史7』二49一一八 (11) 引証記十『仙台市史資料編10』461 (12)引証記十一『仙台市史資料編10』551 (13)伊達家文書『仙台市史資料編10』556