1590(天正(てんしょう)18)年5月9日、伊達政宗(まさむね)が会津黒川を発(た)ち、横川を過ぎて二本松城に宿泊し(1)、米沢・越後を経て小田原に向かった。随従するは宰臣(さいしん)片倉景綱(かげつな)以下譜代衆及び会津・岩瀬の降臣等百騎ほどであった。小田原城に北条氏直(うじなお)を攻囲する豊臣秀吉(とよとみひでよし)のもとに参陣して服属の意を表するためである。
政宗は箱根山中の底倉(そこくら)にとどめられ、参候の遅れと秀吉に臣従する蘆名氏を攻滅したことを問責された。政宗は種々弁明し、「この頃押領(おうりょう)の地」を上げ渡すことを承服して服属を許される(2)。
政宗のこの窮地に、随従した二階堂老臣矢田野義正(よしまさ)が逐電して佐竹の陣に逃げ込み、国元の弟善六郎等一族が岩瀬郡の大里城(天栄村)に立て籠もった。先に伊達麾下(きか)となり須賀川城主に据(す)えられた石川昭光(あきみつ)が主将となってこれを攻める。伊達・刈田・柴田諸郡の人数も差遣されたが、三方を急斜面とし、西を堀切で守られた比高50mの要害は容易に落ちない。
6月25日黒川に帰着した政宗は、小荒田隠岐(おき)がこれに同調するを恐れ黒川への出迎えを命じて途中で殺させ(3)、秀吉直臣木村清久(きよひさ)(のち吉清(よしきよ))に会津を明け渡して米沢に移った。秀吉は小原田城を攻め落として、7月17日会津に向かって進発した。19日、政宗は伊達勢挙げての大里城攻撃を命ずるに、「ておい(手負)・しにん(死人)・さひけん(際限)なく」という大打撃を受けて落とせない(4)。
注 (1)亘理伊達家文書『仙台市史資料編10』692 (2)諸将感状下知状幷諸士状写『神奈川県史資料編3』九八〇二 (3)「政宗記」 (4)引証記十三『仙台市史資料編10』746