2 秀吉の福良宿営

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 8月8日、秀吉が会津への途上福浦(福良)に宿営する。20日余り前から美濃国(みののくに)(岐阜県南部)の佐藤秀方と遠藤慶隆(よしたか)・同胤基(たねもと)の三将が1,000人を率いて在番し、秀吉の宿舎たる「御座所」と身辺警固にあたる御馬廻衆のための二間・五間の「小屋」5、60軒を設営した(5)。秀吉に随行したのは池田輝政・織田信包(のぶかね)・蒲生氏郷(うじさと)・長束(なつか)正家・黒田孝高(よしたか)等42将二万二千余人であるが、これらは野営した。

 5人の道奉行(みちぶぎょう)の指揮のもとに、小田原から黒川まで幅三間(5.4m)の道・橋が造られた。その工事もまた各所の在番衆があたるが、白河から勢至堂峠を越えて福浦に至り、背炙峠を越えて黒川に達するの間は伊達政宗の責任とされた。すなわち、工事には地下人(じげにん)が動員され、橋材に近所の山林の木々が用いられるなどしたのである。

 政宗は「上米(あげまい)」「五千石」を会津に送り届けることを命ぜられた(6)。秀吉随行の将兵とともに、会津諸郡の仕置にあたる豊臣秀次(ひでつぐ)(秀吉の甥)及び奥羽の仕置にあたる石田三成(みつなり)・浅野長吉(ながよし)(のちの長政(ながまさ))等指揮下の7万人を超える将兵の兵粮(ひょうろう)にあてられるものであろう。端境(はざかい)のこの時期の徴発は困難を極め、政宗は「いたて(伊達)のミやうせき(名跡)のたつもたゝぬも此(この)ときニ候」と、百姓を質取りして督責するを家中に命じた(7)。


太閤道(勢至堂峠越)
豊臣秀吉の一行が長沼の牛臥城を出発して、「先発は勢至堂にかかっても、後続部隊はまだ城を出な」かったと言い伝える(『長沼町の伝説』)。


注 (5)大阪城天守閣所蔵秀吉朱印直書『秀吉襲来』 (6)伊達文書等『福島県史7』二99三〇五・三〇七・『仙台市史資料編10』743 (7)引証記十三『仙台市史資料編10』738・746