3 蒲生領となる

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 奥羽仕置の令達は黒川においてほぼ完結された。秀吉の関白としての惣無事令(私戦禁止令)違反による押領(おうりょう)とみなされた二本松(西安達)以下会津諸郡及び安積・岩瀬両郡が召し上げられて蒲生氏郷に与えられた。政宗が伊達領安堵を策して白川不説(ふせつ)・石川昭光の参候を抑止した白河・石川両荘も召し上げられて氏郷領となる。

 田村家領も召し上げられ、政宗に与えられた(8)。田村宗顕(むねあき)もまた小田原参候を望むも、政宗を慮(おもんばか)って果たせず(9)、政宗の策が功を奏したのである。改易となった田村家の宗顕はじめ家中の多くが政宗の仕打ちを憤り、その慰留を振り切って他領に去る(10)。

 翌91(天正19)年9月、政宗は田村荘(たむらのしょう)・小野保(おののほう)と塩松(しおのまつ)(東安達)・伊達・信夫・刈田郡及び長井(米沢地方)を没収され、これらも氏郷に与えられた。木村吉清の所領たる旧大崎・葛西領に起こった一揆使嗾(しそう)の疑いによる。政宗には大崎・葛西諸郡が替え地として与えられた。

 地下人等の、譜代にわたる村落領主との関係を断ち切られ、「他郷へ相越」すことを禁ぜられて(11)、関西弁が圧する新たなる領主の支配下に置かれたことの不安は察するに余りあろう。


伊達政宗配分日記案(仙台市博物館所蔵)
「田村之内」は旧田村家領の内の田村荘分をいい、「御公領(ごくりょう)」は伊達家直轄領を意味して(「晴宗公采地下賜録」)、最たる重臣片倉小十郎景綱に管理を命じたものである。「当御知行(とうおんちぎょう)」は景綱が現に知行する信夫郡南部の大森城領等をいい、その安堵をいう。


注 (8)引証記十四『仙台市史資料編10』767 (9)田村月斎・橋本顕徳連署書状「貞山公治家記録」天正十八年五月二十七日条・天正十八年八月十二日付田村宗顕書状「伊達政宗記録事蹟考記九」 (10)登米伊達家文書『仙台市史資料編10』774 (11)紀伊芝文書『日本の古文書下』五二九

参考文献 小林清治著『奥羽仕置と豊臣政権』・同『奥羽仕置の構造―破城・刀狩・検地―』