27 会津領時代の郡山地方

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 1590(天正18)年、豊臣秀吉(ひでよし)は、陸奥・出羽の押えとして、蒲生氏郷(がもううじさと)を伊勢国松坂より42万石で会津に配置した。氏郷は会津黒川(くろかわ)を若松と改め、若松城や城下町の整備にあたった。氏郷は会津を本城とし、領内に第1図のように支城(しじょう)を配置して支配にあたった。安積郡内の諸城館を廃し、大槻(おおつき)と安子島(あこがしま)のみを支城とし、大槻城に蒲生忠右衛門(ちゅうえもん)、安子島城に蒲生源左衛門(げんざえもん)を城代として配置した。忠右衛門は大槻村の内町に居住した。内町とは後の殿町のことである。秀吉は領内に刀狩(かたなが)りと検地(けんち)を命じた。刀狩りとは農民が刀・脇差(わきざ)しなど武器の所持を禁止したもので、検地とは田畑屋敷を一筆(いっぴつ)ごとに計測して、田畑屋敷の面積を出し、耕作人を定め、村の生産高を石高(こくだか)で表すことである。これに背く者は一郷でも二郷でも撫切(なでぎ)り(皆殺し)にするという厳しいものであった。この検地により、郡山地方の村高は第1表のように決定した。安積地方・湖南地方の村々は44ヵ村で3万6,791石余、西田・田村・中田地方の村々は34ヵ村で2万9,840石余となった。


第1図 蒲生氏郷の城の配置(基図は国土交通省国土地理院)

第1表 蒲生高目録にみる安積・西田・田村・中田の村高
安積地方 西田・田村・中田地方
村名 村高 村名 村高
 
日和田村

924.53
 
鬼生田村

1,910.39
八丁目村 643.48 新田村(丹井田) 972.00
高倉村 979.90 土棚村 723.07
梅沢村 321.16 板橋村 193.00
窪田村(久保田) 1,130.28 高柴村 364.66
福原村 1,540.02 三町目村 988.29
八山田村 524.33 木村村 1,099.10
郡山村 1,899.73 安久津村 630.81
横塚村 327.80 白岩村 735.05
小原田村 1,482.19 舞木村 834.84
富田村 634.99 安原村 133.14
篠川村 856.66 横川村 150.96
荒井村 413.17 南小泉村 177.57
日出山村 566.87 北小泉村 221.77
川田村 668.95 大平村 352.32
成田村 462.10 荒井村 127.53
駒屋村 397.84 下行合村 685.20
大谷村 195.80 上行合村 783.83
山口村 477.78 金屋村 969.31
森屋村(守屋) 650.94 手代木村 211.99
鍋山村 477.93 小川村 254.43
富岡村 1,442.38 御代田村 1,530.76
八幡村 220.05 木賊田村(徳定) 675.76
大槻村 2,599.78 正直村 364.89
河内村 1,082.77 細田村 597.24
夏出村 114.28 大善寺村 496.68
長橋村 300.00 守山村 2,325.81
片平村 2,839.35 金沢村 735.46
多田野村 1,193.43 矢田川村 589.00
早稲原村 363.92 下枝村 1,155.51
堀内村 586.27 高倉村 1,257.27
前田沢村 201.69 海老根村 832.90
安子島村 721.22 牛縊村 1,820.48
上飯津島村 291.10 中津川村 4,839.10
下飯津島村 218.10 合計 29,840.12
中地村 1,166.81
横沢村 997.19
舘村 719.38
浅野村(安佐野) 459.34
舟津村 1,045.52
赤津村 1,306.29
福浦村(福良) 2,629.79
福浦浜 249.00
三代村 467.16
合計 36,791.27

(文禄3年蒲生領高目録(『郡山市史8』資料(上))

 翌年(天正19年)、秀吉は大崎(おおさき)・葛西一揆(かさいいっき)の煽動の疑いにより、伊達政宗(まさむね)を米沢城から岩出沢城(玉造郡)に移し、伊達・信夫・長井・安達・田村・刈田郡等を没収し氏郷に与えた。これにより、氏郷の領地は92万石となり支城は14となった。大槻城と安子島城を廃し、代わりに二本松城と三春城を支城とした。

 氏郷は、1595(文禄4)年に死去したため、氏郷の嫡子秀行(ひでゆき)が継いだ。1598(慶長3)年、秀吉は秀行を家中騒動等を理由に領地を没収し、下野国(栃木県)宇都宮へ移した。

 同年、秀吉は上杉景勝(かげかつ)を会津に配置した。景勝は越後国春日山城より120万石で入封した。景勝は第2図のように支城を配した。若松城を本城とし領内に27ヵ所に支城を置き、家臣を城代として配置した。安積郡には浅香(あさか)、田村へは守山に支城を置き、浅香には安田能元(よしもと)、守山には須田大炊助(おおいのすけ)を入れた。浅香とは安子島である。


第2図 上杉景勝の城の配置(基図は国土交通省国土地理院)

 景勝は領内の街道の整備や橋梁の修築、及び領内村々の家数・人数の調査を行った。さらに、白石城や白河城等の修理や、若松城の北西にある神指城(こうざしじょう)の築城や、仙道の諸城の修築を命じた。そのため、武器を集め浪人を召し抱えているとの噂が飛び交い、景勝挙兵の情報が乱れ飛んだ。徳川家康(いえやす)は、景勝に上洛して弁明させようとしたが景勝は応じなかった。1600(慶長5)年家康は諸大名に会津への進軍を命じ、家康は自ら下野国小山に入り本陣を設けた。

 景勝の家臣直江兼続(なおえかねつぐ)は、家康と対峙するため安子島城で備えた。さらに、兼続は命令伝達の迅速を図るため、安子島城と米沢城の間の横川・中山・猪苗代・高柳・大塩・檜原・綱木・関に馬2疋ずつを備えさせ伝馬制(でんませい)を設けた。

 石田三成は毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)と計り挙兵した。家康は小山に陣を構えていたが、直ちに江戸へ引き返し、9月1日に江戸を発し、同月15日に関ヶ原において決戦し勝利した。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、首謀者の石田三成(みつなり)・小西行長(ゆきなが)・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)などを、京都市中を引き回し六条河原で斬首し、豊臣方の大名を改易(かいえき)・転封(てんぽう)にした。改易とは大名の取り潰しで、転封とは別な領地へ移すことである。一方、家康は徳川一門や譜代(ふだい)の家臣を新たな大名に取り立て関東や奥羽に配置した。

 上杉景勝は1601(慶長6)年に30万石に減封されて米沢へ転封となった。翌年には景勝と密約を交わした嫌疑により、常陸国水戸を居城としていた佐竹義宣(よしのぶ)を、25万5,000石に減封して出羽国秋田へ転封した。

 家康は、再び蒲生秀行を宇都宮より会津に60万石で入封させた。秀行は、若松城を本拠地として、領内には各地に支城を配した。

 1612(慶長17)年、秀行は30歳で病死し、その跡を忠郷(たださと)が継いだが、1627(寛永4)年に疱瘡(ほうそう)のため25歳で病死した。忠郷には子がなかったため会津領を没収した。

 1627年に伊予国松山より加藤嘉明(よしあき)が40万石で会津へ入封した。嘉明は、1631(寛永8)年9月に死去したため、嘉明の遣領は嫡男の明成(あきなり)が相続した。

 加藤氏は本城以外の支城を全て廃し、代わって家老の下に郡代(ぐんだい)、郡奉行(こおりぶぎょう)、代官(だいかん)を置いて領内の支配にあたった。郡代は青木佐左衛門、その後は常川又右衛門等であった。大槻城を御殿(ごてん)とし、片平村には陣屋(じんや)を置いて支配にあたった。御殿とは藩主や郡代等の休息所で付近を殿町(とのまち)と称した。陣屋とは郡代・代官の政務する所である。

 1643年(寛永20年)、加藤明成は病気を理由に(家臣の堀主水(もんど)との紛争からという説もある)、会津の返上を願い出たため、幕府は会津領を没収した。

(柳田和久)

(参考文献・資料)

『二本松市史』1

『白河市史』6

直江兼続伝馬手形(東京大学資料編纂所今井文書)

矢部洋三『大槻村 最後の名主 相楽半左衞門』