1590(天正18)年、豊臣秀吉(ひでよし)は、陸奥・出羽の押えとして、蒲生氏郷(がもううじさと)を伊勢国松坂より42万石で会津に配置した。氏郷は会津黒川(くろかわ)を若松と改め、若松城や城下町の整備にあたった。氏郷は会津を本城とし、領内に第1図のように支城(しじょう)を配置して支配にあたった。安積郡内の諸城館を廃し、大槻(おおつき)と安子島(あこがしま)のみを支城とし、大槻城に蒲生忠右衛門(ちゅうえもん)、安子島城に蒲生源左衛門(げんざえもん)を城代として配置した。忠右衛門は大槻村の内町に居住した。内町とは後の殿町のことである。秀吉は領内に刀狩(かたなが)りと検地(けんち)を命じた。刀狩りとは農民が刀・脇差(わきざ)しなど武器の所持を禁止したもので、検地とは田畑屋敷を一筆(いっぴつ)ごとに計測して、田畑屋敷の面積を出し、耕作人を定め、村の生産高を石高(こくだか)で表すことである。これに背く者は一郷でも二郷でも撫切(なでぎ)り(皆殺し)にするという厳しいものであった。この検地により、郡山地方の村高は第1表のように決定した。安積地方・湖南地方の村々は44ヵ村で3万6,791石余、西田・田村・中田地方の村々は34ヵ村で2万9,840石余となった。
安積地方 | 西田・田村・中田地方 | ||
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村名 | 村高 | 村名 | 村高 |
日和田村 |
石 924.53 |
鬼生田村 |
石 1,910.39 |
八丁目村 | 643.48 | 新田村(丹井田) | 972.00 |
高倉村 | 979.90 | 土棚村 | 723.07 |
梅沢村 | 321.16 | 板橋村 | 193.00 |
窪田村(久保田) | 1,130.28 | 高柴村 | 364.66 |
福原村 | 1,540.02 | 三町目村 | 988.29 |
八山田村 | 524.33 | 木村村 | 1,099.10 |
郡山村 | 1,899.73 | 安久津村 | 630.81 |
横塚村 | 327.80 | 白岩村 | 735.05 |
小原田村 | 1,482.19 | 舞木村 | 834.84 |
富田村 | 634.99 | 安原村 | 133.14 |
篠川村 | 856.66 | 横川村 | 150.96 |
荒井村 | 413.17 | 南小泉村 | 177.57 |
日出山村 | 566.87 | 北小泉村 | 221.77 |
川田村 | 668.95 | 大平村 | 352.32 |
成田村 | 462.10 | 荒井村 | 127.53 |
駒屋村 | 397.84 | 下行合村 | 685.20 |
大谷村 | 195.80 | 上行合村 | 783.83 |
山口村 | 477.78 | 金屋村 | 969.31 |
森屋村(守屋) | 650.94 | 手代木村 | 211.99 |
鍋山村 | 477.93 | 小川村 | 254.43 |
富岡村 | 1,442.38 | 御代田村 | 1,530.76 |
八幡村 | 220.05 | 木賊田村(徳定) | 675.76 |
大槻村 | 2,599.78 | 正直村 | 364.89 |
河内村 | 1,082.77 | 細田村 | 597.24 |
夏出村 | 114.28 | 大善寺村 | 496.68 |
長橋村 | 300.00 | 守山村 | 2,325.81 |
片平村 | 2,839.35 | 金沢村 | 735.46 |
多田野村 | 1,193.43 | 矢田川村 | 589.00 |
早稲原村 | 363.92 | 下枝村 | 1,155.51 |
堀内村 | 586.27 | 高倉村 | 1,257.27 |
前田沢村 | 201.69 | 海老根村 | 832.90 |
安子島村 | 721.22 | 牛縊村 | 1,820.48 |
上飯津島村 | 291.10 | 中津川村 | 4,839.10 |
下飯津島村 | 218.10 | 合計 | 29,840.12 |
中地村 | 1,166.81 | ||
横沢村 | 997.19 | ||
舘村 | 719.38 | ||
浅野村(安佐野) | 459.34 | ||
舟津村 | 1,045.52 | ||
赤津村 | 1,306.29 | ||
福浦村(福良) | 2,629.79 | ||
福浦浜 | 249.00 | ||
三代村 | 467.16 | ||
合計 | 36,791.27 |
(文禄3年蒲生領高目録(『郡山市史8』資料(上))
翌年(天正19年)、秀吉は大崎(おおさき)・葛西一揆(かさいいっき)の煽動の疑いにより、伊達政宗(まさむね)を米沢城から岩出沢城(玉造郡)に移し、伊達・信夫・長井・安達・田村・刈田郡等を没収し氏郷に与えた。これにより、氏郷の領地は92万石となり支城は14となった。大槻城と安子島城を廃し、代わりに二本松城と三春城を支城とした。
氏郷は、1595(文禄4)年に死去したため、氏郷の嫡子秀行(ひでゆき)が継いだ。1598(慶長3)年、秀吉は秀行を家中騒動等を理由に領地を没収し、下野国(栃木県)宇都宮へ移した。
同年、秀吉は上杉景勝(かげかつ)を会津に配置した。景勝は越後国春日山城より120万石で入封した。景勝は第2図のように支城を配した。若松城を本城とし領内に27ヵ所に支城を置き、家臣を城代として配置した。安積郡には浅香(あさか)、田村へは守山に支城を置き、浅香には安田能元(よしもと)、守山には須田大炊助(おおいのすけ)を入れた。浅香とは安子島である。
景勝は領内の街道の整備や橋梁の修築、及び領内村々の家数・人数の調査を行った。さらに、白石城や白河城等の修理や、若松城の北西にある神指城(こうざしじょう)の築城や、仙道の諸城の修築を命じた。そのため、武器を集め浪人を召し抱えているとの噂が飛び交い、景勝挙兵の情報が乱れ飛んだ。徳川家康(いえやす)は、景勝に上洛して弁明させようとしたが景勝は応じなかった。1600(慶長5)年家康は諸大名に会津への進軍を命じ、家康は自ら下野国小山に入り本陣を設けた。
景勝の家臣直江兼続(なおえかねつぐ)は、家康と対峙するため安子島城で備えた。さらに、兼続は命令伝達の迅速を図るため、安子島城と米沢城の間の横川・中山・猪苗代・高柳・大塩・檜原・綱木・関に馬2疋ずつを備えさせ伝馬制(でんませい)を設けた。
石田三成は毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)と計り挙兵した。家康は小山に陣を構えていたが、直ちに江戸へ引き返し、9月1日に江戸を発し、同月15日に関ヶ原において決戦し勝利した。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、首謀者の石田三成(みつなり)・小西行長(ゆきなが)・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)などを、京都市中を引き回し六条河原で斬首し、豊臣方の大名を改易(かいえき)・転封(てんぽう)にした。改易とは大名の取り潰しで、転封とは別な領地へ移すことである。一方、家康は徳川一門や譜代(ふだい)の家臣を新たな大名に取り立て関東や奥羽に配置した。
上杉景勝は1601(慶長6)年に30万石に減封されて米沢へ転封となった。翌年には景勝と密約を交わした嫌疑により、常陸国水戸を居城としていた佐竹義宣(よしのぶ)を、25万5,000石に減封して出羽国秋田へ転封した。
家康は、再び蒲生秀行を宇都宮より会津に60万石で入封させた。秀行は、若松城を本拠地として、領内には各地に支城を配した。
1612(慶長17)年、秀行は30歳で病死し、その跡を忠郷(たださと)が継いだが、1627(寛永4)年に疱瘡(ほうそう)のため25歳で病死した。忠郷には子がなかったため会津領を没収した。
1627年に伊予国松山より加藤嘉明(よしあき)が40万石で会津へ入封した。嘉明は、1631(寛永8)年9月に死去したため、嘉明の遣領は嫡男の明成(あきなり)が相続した。
加藤氏は本城以外の支城を全て廃し、代わって家老の下に郡代(ぐんだい)、郡奉行(こおりぶぎょう)、代官(だいかん)を置いて領内の支配にあたった。郡代は青木佐左衛門、その後は常川又右衛門等であった。大槻城を御殿(ごてん)とし、片平村には陣屋(じんや)を置いて支配にあたった。御殿とは藩主や郡代等の休息所で付近を殿町(とのまち)と称した。陣屋とは郡代・代官の政務する所である。
1643年(寛永20年)、加藤明成は病気を理由に(家臣の堀主水(もんど)との紛争からという説もある)、会津の返上を願い出たため、幕府は会津領を没収した。
(参考文献・資料)
『二本松市史』1
『白河市史』6
直江兼続伝馬手形(東京大学資料編纂所今井文書)
矢部洋三『大槻村 最後の名主 相楽半左衞門』