28 二本松藩と会津藩の成立

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 1643(寛永20)年、丹羽光重(にわみつしげ)が白河より二本松へ10万石で入封した。これによって二本松藩が成立した。それまで、安積郡・安達郡は会津領であったが、両郡は二本松領となった。

 丹羽氏の先祖は、武蔵国児玉党(こだまとう)に属し平氏(へいし)を称していたが、後に尾張国へ移り藤原に改め、その後尾張国丹羽郡(にわぐん)に移り家号を丹羽に改め、さらに尾張国春日井郡児玉村(こだまむら)に移り住んだ。丹羽氏は尾張国の国人(こくじん)として、越前国守護職斯波(しゅごしょくしば)氏に仕えていた。

 丹羽長秀(ながひで)は、1535(天文4)年に丹羽長政(ながまさ)の嫡男として尾張国児玉村に生まれ、1550(天文19)年に16歳で織田信長(のぶなが)に仕え、1560(永禄3)年には今川義元(よしもと)を破った桶狭間(おけはざま)の戦いには、信長とともに熱田(あつた)まで馳せ登り戦功をあげた。翌1561年には美濃国犬山城(いぬやまじょう)攻め、1564(永禄7)年には美濃国稲葉山城(いなばやまじょう)攻め、1570(元亀元)年の姉川(あねがわ)の合戦、1575(天正3)年には長篠(ながしの)の合戦と、諸々の合戦に戦功を挙げ、自らも戦国大名に成長した。

 長秀は、1562(永禄5)年に信長の異母兄信広(のぶひろ)の娘を娶(めと)って織田家の一族に加わり、織田取立大名の筆頭として、柴田勝家(かついえ)とともに宿老的存在となった。1573(天正元)年、木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が、従五位下築前守(ちくぜんのかみ)に任じられたおり、丹羽長秀と柴田勝家の武勇にあやかるため、丹羽と柴田の一文字ずつを摘むことを信長に願い出て、羽柴と姓と改めた。

 1582(天正10)年、本能寺の変において織田信長が明智光秀(みつひで)の奇襲により自害した。この時、長秀は四国攻撃のため織田信孝(のぶたか)とともに大阪におり、河内国森口まで進軍した。光秀謀叛の報を聞くや、光秀の婿である津田信澄(のぶずみ)を攻めて自害させた。さらに、中国の毛利氏と対峙していた秀吉と合流し、山崎において光秀を滅ぼした。

 1583年、長秀は秀吉とともに、賎(しず)ヶ岳(だけ)の合戦において柴田勝家を破ると、長秀は越前国・若狭国・加賀国120万石の城主となった。

 1584年、豊臣秀吉と徳川家康(いえやす)は小牧(こまき)・長久手(ながくて)で対峙した。長秀は秀吉方として参戦した。小牧・長久手の和睦後、秀吉は長秀の上洛を要請した。長秀は病気を理由に重臣の村上義明を登らせ、翌年春に上洛した。しかし、翌年4月に病により51歳で没した。

 長秀の跡を継いだ長重は、1586(天正14)年の佐々成政(なりまさ)征伐のおり、家臣が軍令を犯したという理由で越前国の領地は秀吉により没収され、翌1587年の九州島津征伐の時にも軍法に背いたとして、若狭国が没収となり、加賀国松任4万石に減封されてしまった。

 1590(天正18)年には秀吉方として小田原の陣には先陣を勤め、1592(文禄元)年には朝鮮出兵の本陣である肥前国名護屋城(ひぜんのくになごやじょう)の大手南に三階の鐘楼(しょうろう)を築造したことにより、1595年に加賀国に8万石が加えられ、加賀国小松城(こまつじょう)12万石余の城主となった。


丹羽家の略系譜
(『寛政重修諸家譜』・『丹羽家歴代年譜』より作成)


丹波長重公肖像(大隣寺所蔵・二本松市指定有形文化財)

 1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦には、豊臣方として出陣し隣領の前田利長(としなが)と交戦したため、小松城12万石は没収され、長重は浪々の身となった。

 長重は、徳川秀忠(ひでただ)などの斡旋により、江戸高輪(たかなわ)に大名格の屋敷を構えた。1603(慶長8)年には常陸国古渡(ふつと)に1万石の大名に取り立て官位を丹羽宰相(さいしょう)とした。

 関ヶ原の戦いに敗れたとはいえ、豊臣秀頼(ひでより)は大阪城に居り、いぜんとして勢力を保っていた。家康は豊臣勢の一掃に乗り出した。長重は、1614(慶長19)年の大阪冬の陣、1615(元和元)年の大阪夏の陣に徳川方として参戦した。

 長重は、1619(元和5)年には常陸国江戸崎(えどさき)において1万石の加増となり、1622(元和8)年正月には陸奥国棚倉藩5万石に加増となり、1627(寛永4)年には10万石で白河へ転封となった。白河は関東と奥羽との境にあり、関東を防衛するうえで重要な場所に位置していた。この転封により幕府は奥州・羽州の防衛を長重に命じたのである。長重は、1637年に死去し、長重の遣領を光重(みつしげ)が相続した。

 1643(寛永20)年、加藤明成が会津返上を幕府に願い出ため会津は召上げとなった。加藤氏に代わり、幕府は会津に保科正之(まさゆき)を配置し徳川の親藩(しんぱん)とした。正之は二代将軍徳川秀忠の四男として生まれたが、母は北条氏の旧臣神尾栄加(さかよし)の娘であったため、夫人に憚(はばか)り子としなかった。1617(元和3)年に保科正光(まさみつ)の養子となり、1631(寛永8)年に、正光の遣領を継ぎ信濃国高遠3万石の城主となった。1636年に出羽国山形20万石の城主となり、1643年に会津23万石の城主となった。

 1643年、福島は幕府領(天領(てんりょう))となり代官を置いた。白河には譜代大名である榊原忠次(ただつぐ)が入った。南奥州は、親藩の会津藩を幕府領・譜代大名が支える体制を取った。

 さらに、幕府は丹羽光重を白河より二本松へ移し、伊達・上杉・佐竹など外様大名からの防衛を光重に命じたのである。

 このように、会津藩・幕府領・白河藩・二本松藩は軍事的政策のもとに成立したのである。

(柳田和久)

二本松城


狩野常信作・丹波光重公肖像(大隣寺所蔵・二本松市指定有形文化財)


(参考文献)

『寛政重修諸家譜』

『二本松市史』5

中村彰彦『保科正之』