1645(正保2)年8月、秋田俊季(あきたとしすえ)が常陸宍戸(ししど)城(5万石)から転じて、三春城に入り秋田三春藩が成立する。
秋田家は北奥羽の名門安倍(あべ)氏の末裔(まつえい)と称し、鎌倉期には安藤(安東(あんどう))氏を名乗り、日本海交易で活躍。戦国期には秋田実季(あきたさねすえ)が湊(みなと)城(秋田市)を本拠地とし勢力拡張をはかり、1591(天正19)年1月、豊臣秀吉より秋田(あきた)・檜山(ひやま)二郡5万2,000石を安堵され、戦国大名としての地位を確保した。しかし、関ヶ原戦後の1602(慶長7)年、秋田実季は常陸の佐竹(さたけ)氏と入れ替わり、常陸茨城郡宍戸城5万石に転封となる。そして大坂の役後の1630(寛永7)年、宍戸城は嫡男秋田俊季が相続し、実季は同年夏伊勢朝熊(あさま)への蟄居(ちっきょ)を命じられる。その後、秋田氏は常陸宍戸より陸奥田村郡の地に転封を命じられ、三春に移封するのである。
領地は田村郡の西部と東部の一部を除くほぼ中央部の5万5,000石であった。なお、1649(慶安2)年に二代秋田盛季(もりすえ)が相続する際、弟熊之丞季久(すえひさ)に5,000石(7ヵ村)を譲り(5,000石領秋田家)、三春藩は領地高5万石として、明治維新を迎えるのである。現郡山市域での三春藩領の村々は田村町で細田、中田町では赤沼・高倉・上石(あげいし)・海老根(えびね9・下枝(したえだ)黒木・牛縊本郷(うしくびりほんごう)・木目沢・駒板、西田町が鬼生田(おにゅうだ)・三町目・土棚・板橋・高柴・大畑・李田(すももだ)の村々で、丹井田は三春5,000石領に含められていた。
この他、守山村をはじめ阿武隈川東岸の村々は会津加藤氏の改易後は幕府領となり、1700(元禄13)年の守山藩成立までの57年間を幕府領として存続する。しかし、1678(延宝6)年までの35年間は二本松預領(あずかりりょう)として、延宝6年からは二本松預領より離れ幕府領となり、守山には幕府代官所が設置され22年間を支配している。元禄2年芭蕉等一行が守山を訪ねた時は幕府代官(諸星庄兵衛(もろぼししょうべえ))支配時代であったのである。