守山家の祖、松平頼元(よりもと)は水戸徳川家の初代徳川頼房(よりふさ)の第四子で、二代藩主徳川光圀(みつくに)の異腹弟として水戸城内で誕生。頼元33歳の時、頼房の遺命により水戸家より新田2万石を分知され、水戸新家を創設する。
しかし、1700(元禄13)年11月、二代松平頼貞(よりさだ)の時、将軍綱吉(つなよし)より陸奥・常陸に新知行地として2万石を与えられ、水戸藩に知行地を返上し、陸奥の本領の守山村を藩名とする守山藩(もりやまはん)(2万石)が成立する。
守山藩は定府制(じょうふせい)(江戸居住)で、藩主以下家臣達は江戸藩邸に居住し、参勤交代で領国に下ることはなかった。また、守山藩は讃岐(さぬき)高松藩(12万石)、常陸府中(ひたちふちゅう)藩(2万石)、常陸宍戸(ししど)藩(1万石)とともに水戸藩の分家で御連枝(ごれんし)とも呼ばれ、藩政では水戸藩を御本家と呼称し、常に水戸藩との密接な関係を保ってゆくのである。