30 安積三組の代官所と郷村支配

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 近世の郡山は二本松藩の支配下にあった。二本松藩の領内は、城下町を形成する若宮町・松岡町・本町・亀谷町・竹田町・根崎町(それぞれ現在の二本松市)の町方と、村々112ヵ村の地方(じかた)に分れていた。町方は町奉行(まちぶぎょう)の、地方は郡奉行(こおりぶぎょう)の支配を受けた。

 郡奉行の下では、代官(だいかん)が領内村々の支配にあたった。支配の最小単位は村であるが、代官が一つひとつの村を直接支配するのではなく、代官と村の間に組合村、または大庄屋制(おおじょうやせい)と呼ばれる中間的な支配機構を設置し、支配の円滑化を図っていた。

 組合村は、十数ヵ村によって成り立っていた。組合村からは惣代(そうだ)(割元(わりもと))を選出し、惣代は村役人を通じて、領主よりの布令伝達、事務連絡、諸役の賦課・諸調査を行っていた。

 村には地方(じかた)三役と呼ばれる名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)の村役人を置いた。名主を庄屋(しょうや)とも呼び、村の統括者で、人別改(にんべつあらため)、宗門改(しゅうもんあらため)、五人組改、五人組帳前書の読み聞かせ、村財政、検見(けみ)の立合、年賦の賦課、年貢取立、争論の調停(内済)、触の伝達、川除(かわよけ)・道・橋普請などの水利土木、風俗の取締り、他村との水論・山論・境界論などの調停、金銭・土地の貸借行為の監視など、村政全般に関する業務を行っていた。

 特に、年貢の納入の責任は名主が負うため、納入できない場合は名主が処罰されることもあった。そのため、名主は村内でも富農が選ばれ、身分や知識に富み、農民に対し強い権限を付与されていた。第1表は1852(嘉永5)年の村役人・宿役人名である。組頭は名主の補佐役で、村内で名主に次ぐ高持百姓から選ばれた。百姓代は、二本松藩では目付(めつけ)と呼ばれ、農民の代表で名主や組頭を監視する役である。他に、村々には錠番(じょうばん)・山守(やまもり)が置かれた。錠番は、年貢勘定や、郷蔵(ごうくら)の鍵の保管、郷蔵からの年貢の出し入れ等であった。山守は、村の山や森林・秣場(まぐさば)等の管理を行っていた。

第1表 安積三組の村役人と宿役人名
組名 村名 町村宿役 名前 組名 村名 町村宿役 名前
郡山組 郡山上町 検断 今泉半之允 大槻組 大槻村 名主 安斎太郎右衛門
郡山下町 検断 今泉定七郎 大槻村 名主 相楽捨蔵
郡山宿 本陣 今泉久右衛門 多田野村 名主 斎藤貞右衛門
郡山宿 本陣 横田治右衛門 山口村 名主 菅野喜惣治
郡山宿 検断 永戸市郎右衛門 大谷村 名主 嶋田養介
郡山宿 検断 菊池甚兵衛 駒屋村 名主 山岡喜良右衛門
郡山宿 問屋 菊池壮蔵 八幡村 名主 大原藤左衛門
小原田村 名主 佐藤東兵衛 富岡村 名主 増子三左衛門
小原田村 名主 佐藤恭蔵 下守屋村 名主 水山検蔵
小原田村 問屋 水野治郎兵衛 鍋山村 名主 星 藤七
日出山村 名主 佐藤平右衛門 野田新田 名主 野田荘左衛門
日出山村 問屋 佐藤七郎兵衛 川田村 名主 佐藤八郎
笹川村 名主 河原浄右衛門 成田村 名主 斎藤秀作
笹川村 問屋 大野為助 片平組 上伊豆嶋村 名主 添田喜作
笹川村 問屋 佐々木惣十郎 片平村 名主 添田作平
荒井村 名主 伊東源四郎 下伊豆嶋村 名主 添田喜兵衛
横塚村 名主 今泉佐左衛門 夏出村 名主 反田喜惣右衛門
久保田村 名主 高橋久左衛門 河内村 名主 堀田喜左衛門
福原村 名主 中田清九郎 長橋村 名主 渡辺修平
福原村 名主 薄井伝之助 片平村 名主 高田宇平
福原村 問屋 島田與一右衛門 片平村 名主 国分丹吾
福原村 問屋 三坂忠左衛門 前田沢村 名主 新十郎
八山田村 名主 瀧田佐野右衛門 早稲原村 名主 佐藤新次郎
日和田村 名主 佐藤新三郎 堀之内村 名主 佐藤新作
日和田村 名主 小野口多郎右衛門 富田村 名主 熊田長左衛門
日和田村 問屋 岩次 富田村 名主 矢吹喜左衛門
高倉村 名主 斎藤源三郎 安子嶋村 名主 橋本次郎太
梅沢村 名主 斎藤源兵衛
高倉村 検断・問屋 国分理太夫
八丁目村 名主 弥八郎

(『郡山市史』8 資料(上))

 二本松藩では領内の112ヵ村を第2表のように10組に編成している。1833(天保4)年には、舟津・舘・浜地・横沢・安佐野の山之内(やまのうち)5ヵ村が大槻組を抜けて会津藩領となったため、代わりに天領川俣代官所領であった八丁目村・天明村・下水原村・上水原・鼓岡村の5ヵ村(八丁目組)が編入され11組となった。

第2表 組別の村数と名主人数表
組名 村数
(ヵ村)
名主人数
 (人)
1 大槻組 17 20
2 郡山組 14 17
3 片平組 11 14
4 杉田組 7 11
5 玉井組 9 11
6 渋川組 9 10
7 小浜組 11 17
8 針道組 13 14
9 糠沢組 8 12
10 本宮組 13 14
合計 112 140

(『二本松市史6』P149)

 各組合村には代官が1名ずつ置かれた。そのうち、杉田組・玉井組・渋川組・小浜組は地代官(じだいかん)と呼ばれ、城下にある自分の屋敷を代官所とし、そこで政務を行った。大槻組・郡山組・片平組・針道組・糠沢組・本宮組の代官は遠代官(とおだいかん)と呼ばれ、城下の自宅のほかに、郡山村と本宮村に代官所があった。

 郡山組・大槻組・片平組の安積三組の代官所は、郡山村の字燧田(ひうちだ)(現在の陣屋)に置かれた。燧田は中世には郡山城が築かれていたが、近世には城としての機能や建物は廃止され、郡山組・大槻組・片平組の安積三組の代官所となった。代官所は役屋敷(やくやしき)とも呼ばれた。


安積三組の代官所の絵図(郡山市中央図書館所蔵)

 二本松藩では、各組合村ごとに條目(じょうもく)を作成して詳細な取り決めを行っている。條目を簡単に要約すると、

一 公儀御法度や触書・法の厳守

一 人馬を疎略に差し出さないこと

一 大雪の節は雪踏み人足を出すこと

一 子供は男女によらず養育すること

一 夫婦間の争いの禁止

一 農業の奨励と商売の禁止

一 農耕の奨励

一 名主や富農・富商は小前百姓を引き立てること

一 老年・幼少の者への世話の奨励

一 池・堰・川除普請は念を入れて行うこと

一 年貢上納は遅滞なく行うこと

一 田畑は惣領へ相続すること

一 田畑質地証文には名主・組頭も判を押すこと

一 出入・徒党(ととう)の禁止

一 証文には理解したうえで判を押すこと

一 投目安(なげめやす)には名前を記して出すこと

一 村役人の不正は直ちに訴え出ること

一 公事・穿鑿(せんさく)・牢舎人への面接の禁止

一 村役人の給分

等であり、農民生活について詳細に記載している。この條目は各組合村とも内容はほぼ同じである。この禁止事項に背いた小農民・水呑(みずのみ)百姓に対しては、名主・組頭などの村役人が監視にあたり、さらに組合村惣代や代官が取締りにあたるなど、封建的秩序の維持を計っているのである。

(柳田和久)

(参考文献・資料)

『郡山市史2』近世(上)

『二本松市史』

享保二十一年正月「安積郡之内郡山村大概帳」(郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書)

享保二十年「大槻組條目」(郡山市大槻町安斉家文書)