近世の郡山は二本松藩の支配下にあった。二本松藩の領内は、城下町を形成する若宮町・松岡町・本町・亀谷町・竹田町・根崎町(それぞれ現在の二本松市)の町方と、村々112ヵ村の地方(じかた)に分れていた。町方は町奉行(まちぶぎょう)の、地方は郡奉行(こおりぶぎょう)の支配を受けた。
郡奉行の下では、代官(だいかん)が領内村々の支配にあたった。支配の最小単位は村であるが、代官が一つひとつの村を直接支配するのではなく、代官と村の間に組合村、または大庄屋制(おおじょうやせい)と呼ばれる中間的な支配機構を設置し、支配の円滑化を図っていた。
組合村は、十数ヵ村によって成り立っていた。組合村からは惣代(そうだ)(割元(わりもと))を選出し、惣代は村役人を通じて、領主よりの布令伝達、事務連絡、諸役の賦課・諸調査を行っていた。
村には地方(じかた)三役と呼ばれる名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)の村役人を置いた。名主を庄屋(しょうや)とも呼び、村の統括者で、人別改(にんべつあらため)、宗門改(しゅうもんあらため)、五人組改、五人組帳前書の読み聞かせ、村財政、検見(けみ)の立合、年賦の賦課、年貢取立、争論の調停(内済)、触の伝達、川除(かわよけ)・道・橋普請などの水利土木、風俗の取締り、他村との水論・山論・境界論などの調停、金銭・土地の貸借行為の監視など、村政全般に関する業務を行っていた。
特に、年貢の納入の責任は名主が負うため、納入できない場合は名主が処罰されることもあった。そのため、名主は村内でも富農が選ばれ、身分や知識に富み、農民に対し強い権限を付与されていた。第1表は1852(嘉永5)年の村役人・宿役人名である。組頭は名主の補佐役で、村内で名主に次ぐ高持百姓から選ばれた。百姓代は、二本松藩では目付(めつけ)と呼ばれ、農民の代表で名主や組頭を監視する役である。他に、村々には錠番(じょうばん)・山守(やまもり)が置かれた。錠番は、年貢勘定や、郷蔵(ごうくら)の鍵の保管、郷蔵からの年貢の出し入れ等であった。山守は、村の山や森林・秣場(まぐさば)等の管理を行っていた。
組名 | 村名 | 町村宿役 | 名前 | 組名 | 村名 | 町村宿役 | 名前 |
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郡山組 | 郡山上町 | 検断 | 今泉半之允 | 大槻組 | 大槻村 | 名主 | 安斎太郎右衛門 |
郡山下町 | 検断 | 今泉定七郎 | 大槻村 | 名主 | 相楽捨蔵 | ||
郡山宿 | 本陣 | 今泉久右衛門 | 多田野村 | 名主 | 斎藤貞右衛門 | ||
郡山宿 | 本陣 | 横田治右衛門 | 山口村 | 名主 | 菅野喜惣治 | ||
郡山宿 | 検断 | 永戸市郎右衛門 | 大谷村 | 名主 | 嶋田養介 | ||
郡山宿 | 検断 | 菊池甚兵衛 | 駒屋村 | 名主 | 山岡喜良右衛門 | ||
郡山宿 | 問屋 | 菊池壮蔵 | 八幡村 | 名主 | 大原藤左衛門 | ||
小原田村 | 名主 | 佐藤東兵衛 | 富岡村 | 名主 | 増子三左衛門 | ||
小原田村 | 名主 | 佐藤恭蔵 | 下守屋村 | 名主 | 水山検蔵 | ||
小原田村 | 問屋 | 水野治郎兵衛 | 鍋山村 | 名主 | 星 藤七 | ||
日出山村 | 名主 | 佐藤平右衛門 | 野田新田 | 名主 | 野田荘左衛門 | ||
日出山村 | 問屋 | 佐藤七郎兵衛 | 川田村 | 名主 | 佐藤八郎 | ||
笹川村 | 名主 | 河原浄右衛門 | 成田村 | 名主 | 斎藤秀作 | ||
笹川村 | 問屋 | 大野為助 | 片平組 | 上伊豆嶋村 | 名主 | 添田喜作 | |
笹川村 | 問屋 | 佐々木惣十郎 | 片平村 | 名主 | 添田作平 | ||
荒井村 | 名主 | 伊東源四郎 | 下伊豆嶋村 | 名主 | 添田喜兵衛 | ||
横塚村 | 名主 | 今泉佐左衛門 | 夏出村 | 名主 | 反田喜惣右衛門 | ||
久保田村 | 名主 | 高橋久左衛門 | 河内村 | 名主 | 堀田喜左衛門 | ||
福原村 | 名主 | 中田清九郎 | 長橋村 | 名主 | 渡辺修平 | ||
福原村 | 名主 | 薄井伝之助 | 片平村 | 名主 | 高田宇平 | ||
福原村 | 問屋 | 島田與一右衛門 | 片平村 | 名主 | 国分丹吾 | ||
福原村 | 問屋 | 三坂忠左衛門 | 前田沢村 | 名主 | 新十郎 | ||
八山田村 | 名主 | 瀧田佐野右衛門 | 早稲原村 | 名主 | 佐藤新次郎 | ||
日和田村 | 名主 | 佐藤新三郎 | 堀之内村 | 名主 | 佐藤新作 | ||
日和田村 | 名主 | 小野口多郎右衛門 | 富田村 | 名主 | 熊田長左衛門 | ||
日和田村 | 問屋 | 岩次 | 富田村 | 名主 | 矢吹喜左衛門 | ||
高倉村 | 名主 | 斎藤源三郎 | 安子嶋村 | 名主 | 橋本次郎太 | ||
梅沢村 | 名主 | 斎藤源兵衛 | |||||
高倉村 | 検断・問屋 | 国分理太夫 | |||||
八丁目村 | 名主 | 弥八郎 |
(『郡山市史』8 資料(上))
二本松藩では領内の112ヵ村を第2表のように10組に編成している。1833(天保4)年には、舟津・舘・浜地・横沢・安佐野の山之内(やまのうち)5ヵ村が大槻組を抜けて会津藩領となったため、代わりに天領川俣代官所領であった八丁目村・天明村・下水原村・上水原・鼓岡村の5ヵ村(八丁目組)が編入され11組となった。
組名 | 村数 (ヵ村) |
名主人数 (人) |
|
---|---|---|---|
1 | 大槻組 | 17 | 20 |
2 | 郡山組 | 14 | 17 |
3 | 片平組 | 11 | 14 |
4 | 杉田組 | 7 | 11 |
5 | 玉井組 | 9 | 11 |
6 | 渋川組 | 9 | 10 |
7 | 小浜組 | 11 | 17 |
8 | 針道組 | 13 | 14 |
9 | 糠沢組 | 8 | 12 |
10 | 本宮組 | 13 | 14 |
合計 | 112 | 140 |
(『二本松市史6』P149)
各組合村には代官が1名ずつ置かれた。そのうち、杉田組・玉井組・渋川組・小浜組は地代官(じだいかん)と呼ばれ、城下にある自分の屋敷を代官所とし、そこで政務を行った。大槻組・郡山組・片平組・針道組・糠沢組・本宮組の代官は遠代官(とおだいかん)と呼ばれ、城下の自宅のほかに、郡山村と本宮村に代官所があった。
郡山組・大槻組・片平組の安積三組の代官所は、郡山村の字燧田(ひうちだ)(現在の陣屋)に置かれた。燧田は中世には郡山城が築かれていたが、近世には城としての機能や建物は廃止され、郡山組・大槻組・片平組の安積三組の代官所となった。代官所は役屋敷(やくやしき)とも呼ばれた。
二本松藩では、各組合村ごとに條目(じょうもく)を作成して詳細な取り決めを行っている。條目を簡単に要約すると、
一 公儀御法度や触書・法の厳守
一 人馬を疎略に差し出さないこと
一 大雪の節は雪踏み人足を出すこと
一 子供は男女によらず養育すること
一 夫婦間の争いの禁止
一 農業の奨励と商売の禁止
一 農耕の奨励
一 名主や富農・富商は小前百姓を引き立てること
一 老年・幼少の者への世話の奨励
一 池・堰・川除普請は念を入れて行うこと
一 年貢上納は遅滞なく行うこと
一 田畑は惣領へ相続すること
一 田畑質地証文には名主・組頭も判を押すこと
一 出入・徒党(ととう)の禁止
一 証文には理解したうえで判を押すこと
一 投目安(なげめやす)には名前を記して出すこと
一 村役人の不正は直ちに訴え出ること
一 公事・穿鑿(せんさく)・牢舎人への面接の禁止
一 村役人の給分
等であり、農民生活について詳細に記載している。この條目は各組合村とも内容はほぼ同じである。この禁止事項に背いた小農民・水呑(みずのみ)百姓に対しては、名主・組頭などの村役人が監視にあたり、さらに組合村惣代や代官が取締りにあたるなど、封建的秩序の維持を計っているのである。
(参考文献・資料)
『郡山市史2』近世(上)
『二本松市史』
享保二十一年正月「安積郡之内郡山村大概帳」(郡山市歴史資料館所蔵今泉家文書)
享保二十年「大槻組條目」(郡山市大槻町安斉家文書)