幕末期には異国船渡来以来海防問題をめぐり、開港・攘夷の論をめぐり世相は険(けわ)しくなる。
1864(元治元)年3月、筑波山(つくばさん)で藤田小四郎等が尊皇攘夷(そんのうじょうい)を掲げ挙兵すると、水戸藩では藩内抗争が激化する(天狗党の乱)。騒動の余波は守山藩にも及び、藤田小四郎等の激派に加担したとして一部藩士が処刑され、守山藩重臣の者でも謹慎(揚屋牢入り)を申し渡される者もいた。
なお、幕府は筑波挙兵に対し関東や南東北の諸藩に追討令を出し、近隣の福島・棚倉・三春・二本松の諸藩からも天狗党鎮圧のため出兵している。
こうした状況に陸奥守山領では、御本家水戸藩の藩内抗争激化と幕府および諸藩からの出兵が、まさに御本藩(水戸藩)の「危急存亡の秋(とき)」と意識され、その結果守山陣屋有志の者による「仙台侯歎訴事件(せんだいこうたんそじけん)」が起こされた。1864年10月2日、仙台藩主が参勤交代で江戸参府途中に、郡山宿(海老屋治右衛門方)に宿泊の折、仙台藩主に水戸藩の内訌鎮静(ないこうちんせい)の斡旋を願い出たもので、嘆願書には守山領陣屋役人・郷士・庄屋・神主達22名余が署名していた。そして守山陣屋では歎願のことを報告するため陣役人の庄司数衛門と小林権蔵の両名を江戸藩邸へ派遣するが、両名共に「揚屋(あがりや)(牢)入り」の厳罰処分、歎願署名の者には謹慎が申し渡されている。また、守山藩家老が水戸藩より呼出しを受け「常の心得方宜しからずことであり、以後一統心得違いの無いよう」と水戸藩より譴責(けんせき)をうけるのである。
1868(慶応4)年2月、王政復古(おうせいふっこ)の御一新(ごいっしん)のもと、水戸藩では藩政の刷新が唱えられ藩内抗争が再燃してくる。守山藩でも藩首脳人事の刷新を端緒に藩政改革が行われ、幽閉(謹慎)の身分であった者が赦免(しゃめん)され、藩政の要職に再任又は登用されてくるのである。そして京都の維新政府に「会津追討御先手願」を願出ている。
守山藩は水戸藩の支藩として水戸藩の影響を強く受け、領地は東北諸藩の中に介在していても、定府制のため藩士の多くは江戸屋敷に居住し、東北諸藩との連帯感が薄い。また、定府制であったため全国的な諸情勢に敏感に対応出来る情報も得ることが出来たのである。そして守山藩は戦意無く東征軍の前に戦わずして降伏する。これが、守山藩の戊辰戦争に対する対応であった。
(参考文献)「守山藩御用留帳」
「年中公私日記」(樫村家文書)