田畑の農作物は、土地の養分を吸収して実を付けるため、農作物の収穫後は土地に養分を補充しなければやせ衰えてしまうのである。
土地に補充する養分とは、窒素・リン酸・カリウム・カルシウム(石灰)・マグネシウム等である。これらの化学肥料が、日本で使用されるようになったのは明治の末頃からで、外国より輸入されるようになってからである。明治の中頃までは、田畑の肥料は青草や灰や人糞であった。青草や灰が主で、人糞は補助的に用いられていた。灰は木や草を燃やしたものである。青草や木の供給地は原野や山野であった。原野や山野は、近隣村々の農民が互いに入り会い、草や木を刈り取る場所で、そのような所を秣場と呼んでいた。
秣場は、田畑の肥料である草のほか、牛馬の飼料である草、燃料の薪等を刈り取り採集する場所で、農民にとっては大変重要な場所であった。農民が互いに入り会う場所は、秣場のほかに林野(りんや)・萱野(かやの)・芦野(あしの)等がある。これらの入会地は村々の共同の利用地であり、個人の所有は認められていなかった。
安積郡の主な秣場と入会村々は第1表のとおりである。対面原(たいめんはら)は日和田・高倉等7ヵ村の入会秣場である。日和田原は日和田・高倉等4ヵ村、向原は日和田・八丁目等4ヵ村、広谷原(こうやはら)は堀之内・下伊豆島等9ヵ村、四十壇原(しじゅうだんぱら)は鍋山・八幡等5ヵ村、庚壇原(こうだんぱら)は大槻・河内等5ヵ村。牛庭原(うしにわはら)は笹川・川田等5ヵ村、大谷地原(おおやじはら)は笹川・仁井田等3ヵ村、大蔵壇原(だいぞうだんぱら)は荒井・大槻等3ヵ村。山田原は山口・多田野村の2ヵ村。三本木原(さんぼんぎはら)は鍋山・富岡村の2ヵ村。青田原(あおたはら)は荒井・青田・岩根村の3ヵ村。湯川原(ゆのかわはら)(御代田原(みよたはら))は御代田・山中等10ヵ村である。
原野名 | 面積 | 入 会 村 々 |
---|---|---|
対面原 | 600町余 | 日和田村・高倉村・前田沢村・安子島村・下伊豆島村・堀ノ内村・早稲原村 |
広谷原 | 700町余 | 久保田村・福原村・八山田村・日和田村・早稲原村・堀ノ内村・下伊豆島村・富田村・片平村 |
庚壇原 | 430町余 | 大槻村・多田野村・河内村・片平村・富田村 |
山田原 | 470町余 | 多田野村・山口村 |
四十壇原 | 150町余 | 八幡村・駒屋村・川田村・野田新田・鍋山村 |
三本木原 | 35町余 | 富岡村・鍋山村 |
大蔵壇原 | 100町 | 小原田村・荒井村・大槻村 |
牛庭原 | 300町 | 野田新田・川田村・成田村・笹川村・仁井田村 |
大谷地原 | 160町余 | 笹川村・滑川村・仁井田村 |
日和田原 | 日和田村・高倉村・八丁目村・梅沢村 | |
向原 | 日和田村・八丁目村・福原村・八山田村 | |
青田原 | 荒井村・青田村・岩根村 | |
湯川原 | 御代田村・山中村・守山村・堤村・江持村・正直村・大供村・岩作村・谷田川村・塩田村 | |
大槻原 | 大槻村・郡山村・小原田村 |
(明治11年「青田原段別調・その他」福島県庁文書F2140)
村々では、秣場をめぐって度々争論が起きている。主な争論は、1692(元禄5)年の鍋山村と駒屋村の入会地である四十壇原においての争論、1798(寛政10)年6月の安積郡川田村と岩瀬郡仁井田村の争いは牛庭原の入会をめぐっての争論などである。このうち、川田村と仁井田村の和解の内容は、「川田村は仁井田村の農民から取り上げた鎌を返し、仁井田村は川田村へ野手役銭(のでやくせん)(使用料)として300文ずつを毎年5月晦日までに納めること」、「今後は秣場の境を明確にして入り会うこと」、「入会秣場では新田・新畑・新林を開発しないこと」を条件に内済している。
1806(文化3)年には鍋山村と富岡村が南原(三本木原)で争論を越こしたが、入会地の境を明確にすることで内済している。
1840(天保11)年8月には大槻村と片平村が庚壇原の中ノ平で争論を起こし、大槻村の者4人が手傷を負う事件が起きている。中ノ平は大槻村にとって最も重要な秣場であった。
大槻原は、別名離森(はなれもり)とも称し、台東(だいひがし)・青谷地(あおやじ)・葉ノ木沢の3ヵ所の総称で、大槻・郡山・小原田村3ヵ村の入会地である。大槻原は、1873(明治6)年から開墾が始まり1876年に桑野村として成立する所である。この大槻原では、大槻村と小原田村が1797(寛政9)年と1855(安政2)年に争論を起こしている。1797年の争論は、木幡村名主紺野源五衛門、荒井村名主遠藤源四郎の仲介により和解した。和解の内容は、大槻原へは「大槻村・郡山村・小原田村3ヵ村の入会秣場として古来(こらい)の通り入り会うこと」で内済している。1855年の争論は、小原田村の者が葉ノ木沢の境を越して草苅りをしたため、大槻村の島・堤・亀田の者に鎌を奪われたことが発端となった。小原田村の者が奪われた鎌を取り返しに行き、仕返しに大槻原で草苅りしていた者を襲い怪我をさせたのである。この事件は、駒屋村名主山岡喜郎右衛門、郡山検断(けんだん)今泉伊左衛門、笹川村名主河原浄右衛門の仲介により和解した。和解の内容は、「小原田村では怪我を負わせた者に、薬代金として28両(約140万円)を支払うこと」、「大槻村は奪った鎌16丁を返し、残りの鎌15丁は仲介人が預かる」、「今後意趣遺恨を残さないこと」で内済となった。
このように、安積開拓以前の原野は、入会地として、農民にとって田畑の肥料、牛馬の飼料、薪木等を刈り取る大変重要な場所で、境を越して入り込むと村々の争論に発展する場所であったのである。
明治期の桑野村開墾や明治政府の安積開拓は、このような村々の入会秣場を開墾したのである。秣場が開墾されることは農民にとって死活問題であった。そのため、開拓計画が進むと秣場の開墾に反対し、役人の暗殺計画まで持ち上がったのである。
福島県や明治政府は開拓を強引に進めた。1889(明治22)年に福島県が安積郡の農事調査した時の資料に、安積郡には原野が沢山あったが、安積開拓により原野は開発され、草・薪木を得るにはなはだ不便であると記している。
(参考文献・資料)
『郡山市史9』資料(中)
福島県庁文書F2140
郡山市大槻町安斉家文書