33 年貢の徴収と農民の負担

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 江戸時代の経済は自給自足の農業を基本とし、幕府や藩の財政を賄(まかな)ったのは農民から納入させる年貢(本途物成(ほんとものなり))と雑税(小物成(こものなり))であった。このようなことから、幕府や藩は年貢を納める農民に対する支配に大きな力を注いだ。

 年貢は検地帳に載っている本百姓に義務付けられた。年貢率(免)は所持高に対して幾ら(何割何分)と決められ、割り付けられたが、ただ単に所持高だけでなく、山地や平地の別、水利の便、地質なども勘案されて年貢率が決められていた。そのため村によって年貢賦課(ふか)率が異なっていた。第1表は安積郡三組の村高、年貢率、本百姓戸数を示したものである。年貢率の項で「ツ・分」は「割・分」を意味している。

第1表 安積三組村別村高・年貢率・本百姓戸数表
村名 村高(本田高) 年貢率 戸数
郡山組 郡山 2,403 32,764 6 3 298
小原田 1,542 72,818 2 5 141
日出山 441 7 5 6 64
笹川 856 66 3 4 115
久保田 1,130 28 3 8 115
福原 1,540 7 5 1 138
日和田 924 53 6 4 169
高倉 976 30,722 3 8 142
梅沢 290 84 5 6 45
八山田 530 67 3 2 71
笹原 227 8 2 0 6
荒井 413 175 6 8 116
八丁目 643 48 3 6 69
横塚 327 8 5 4 52
小計 12,145 93,804 1,541
片平組 片平 2,839 35 4 6 367
河内 1,080 0 4 7 191
夏出 114 28 6 8 32
長橋 300 0 4 5 63
富田 1,610 495 5 0 179
早稲原 363 96 2 8 61
堀之内 704 98 3 2 103
前田沢 200 29 6 2 50
上伊豆 421 83 3 0 76
下伊豆 432 89 4 6 68
安子島 952 75 6 4 201
小計 9,020 825 1,391
大槻組 大槻 1,230 20,568 5 8 341
多田野 2,339 72,217 3 2 266
山口 664 77 4 0 102
大谷 350 15 2 9 56
八幡 220 5 4 9 31
駒屋 397 85 7 2 77
川田 668 95 6 6 136
成田 462 11 4 6 82
野田新田 (新田352 76 5 1 42
鍋山 477 93 3 6 70
富岡 1,442 38 2 0 153
下守屋 658 348 5 2 92
安佐野 661 253 4 7 48
舟津 1,310 96 5 1 185
962 86 3 3 102
横沢 844 13 5 6 99
浜路 222 35 4 2 51
小計 12,913 56,668 1,933
合計 34,080 32,972 4,865

出所:「積達大概録」文政2年写本より

 年貢の決め方には検見法(けみほう)と定免法(じょうめんほう)があった。検見法とは、毎年領内各村の米の出来高を計って年貢率を決める方法である。定免法とは以前の数年間(3~5年)の平均年貢率を割り出し、その率に若干の率を上乗せした年貢率を一定年間賦課する方法である。近世初期には幕領、各藩とも検見法を採用していたが、後には定免法が一般的になっていった。二本松藩では1655(明暦元)年より定免法を採用している。


宝暦3年 定免の申し渡し (守山藩御用留帳)

 しかし、不作や凶作の年の年貢の賦課は難しくなる。そのため、藩は破免(はめん)と称して定免賦課を止めて検見法を実施し、年貢率を引き下げている。

 年貢納入は米で納めるのが原則であったが、その後、半石半永(はんこくはんえい)と称して年貢の半分は米、半分は金で納めるのが東北諸藩では一般的であった。年貢納入が半石半永になると、農民は半永分の金を作るために、畑に桑や紅花(べにばな)、藍(あい)、煙草(たばこ)など現金化できる作物を栽培するようになった。しかし藩は、畑に現金化するための作物を栽培することにより、年貢米の手入れが行き届かなくなることを恐れ、そのような作物の栽培の制限、あるいは禁止を行った。このような中で、年貢米を負担できない農民は質物奉公(しちもつほうこう)といって、家族の者を身売りして現金を作ることもあった。いよいよ行き詰まると欠落(かけおち)といって、村を逃げ出した。

 農民が減るとそれだけ年貢納入が少なくなるので、領主は様々な制限令(お触れ)を出した。二本松藩では「御条目」という触れを各組村に出し、これを守ることを強制した。

 この「御条目」は江戸時代を通して度々出されている。その主な内容は、親孝行や兄弟仲良くすること、家の建築は簡単にすること、着物は布・木綿以外は用いてはならないこと、酒・茶・煙草などは嗜(たしな)まないこと等々である。この「御条目」を毎年正月に名主の家に各戸の主(あるじ)を集めて名主が読み聞かせることになっていた。

 幕府や藩は、領内に住む全ての領民が御条目やお触れを守りその支配に忠実に従うように、連帯で責任を負わせるため、「五人組」という制度を設けた。この五人組は近隣の5軒で構成されて、互いに違反のないように監視させたり、領主からの命令に連帯して責任を果たすようにしていた。五人組から欠落人が出ると、その探索や年貢負担が五人組に課せられたのである。


享保3年 守山藩の条目(守山藩御用留帳)


大槻組條目

 農民の負担は年貢の他に小物成という雑税があった。小物成は全ての村の農民に掛けられる「高掛物」と商売に掛けられる「役」に分けられる。第2表は近隣諸藩が支配下の村々に出した定納物と呼ばれた小物成である。商売などに掛けられた「役銭」には、「酒役」「棒手役」とか、約40種にものぼっている。

 その他、街道筋やその近辺の村々では助郷役(すけごうやく)という労役が課せられた。大名行列や公儀(こうぎ)(江戸幕府のこと)の荷物の運搬などに駆り出されたのである。しかも、そのような行列は春や秋の農繁期に多かったため、農民の負担は大きいものがあった。

(佐藤新一)
第2表 各領域別小物成の種類
幕領 二本松藩 守山藩 三春藩 越後高田藩 会津藩
小物成の種類 鷹餌犬米 納大豆 糠藁役 綿役銀 納大豆 大豆
糠代 納油荏 綿役 糠藁金 納稗 油荏
薪代 足役銭 芝野年貢 足廻銭 油荏 糠藁金
萱代 夫銭 高掛り金 納大豆 夫金 綿役金
葭代 綿役銀 六尺給 納油荏 鷹餌犬米 足前銭
下刈日雇代 糠藁金 大豆買納 納稗 糠代金
漆木代 納薪 納藁代
柿渋代 漆役米 納柿渋
夫金 御蔵番給
御伝馬宿入用 納葭代
六尺給米 萱代金
御蔵前入用
定納大豆
定納菜種
出典 天保12年
栃本村年貢割付状
正保元年
 
元禄14年
 
文化2年
 
寛保2年
 
天保期
 

 


参考文献

『郡山の歴史』・『郡山市史』