34 奥州街道の建設と安積七宿

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 近世には、安積郡を通る奥州街道(現在の旧国道)添いに笹川・日出山・小原田・郡山・福原・日和田・高倉の七宿があった。久保田は奥州街道沿いにあるが宿場ではなく村であった。

 宿場は、宿駅(しゅくえき)・馬継場(うまつきば)等とも称し交通運輸・通信・休宿泊を主な業務としている。宿場の第一の業務に運輸・通信業務がある。運輸・通信業務とは、人や馬によって荷物を宿場から次の宿場まで輸送することである。すなわち、宿場で人や馬に積んだ荷物を次の宿場まで運び、宿場に着いたら人や馬に荷物を積み替えて先の宿場まで運ぶもので、宿場ごとに人や馬を交代して、次の宿場、次の宿場へと荷物を運ぶ業務のことである。このような荷物の輸送を人馬継立(じんばつぎたて)と称している。人馬継立の業務を行う場所が問屋場(とんやば)であり、その業務を差配する役人を問屋(とんや)と称している。

 宿場の第二の業務に旅行者の休宿泊がある。そのため、宿場には本陣(ほんじん)・脇(わき)本陣・旅籠屋(はたごや)・茶屋(ちゃや)等の施設が建てられていた。本陣は大名などが休泊する施設である。本陣を管理・運営する役人を本陣役と称し、本陣と呼ぶ場合もある。本陣を利用できる者は、主に参勤交代(さんきんこうたい)の大名であるが、他に将軍、幕府役人、宮家、公卿、高僧等の貴人が利用した。脇本陣は本陣の補助的な施設で、参勤交代などの家臣が休宿泊した。脇本陣に収容しきれない場合は、旅籠屋などが急遽(きゅうきょ)脇本陣に指定される時もある。本陣に休泊できる者は大名や貴人等の一部の特権階級であり、一般の旅行者は休泊できないことになっていた。

 旅籠屋を利用する人は、私用で旅行する武士や下級武士・一般旅行者等である。旅籠屋には食事付きの旅籠屋と木賃宿(きちんやど)がある。食事付きの旅籠屋を平旅籠屋(ひらはたごや)と呼んでいる。木賃宿は、旅人が米等の食料を持参して旅籠屋へ薪代を払い自炊しながら泊まる宿のことで、平旅籠屋より安い旅籠屋である。他に飯盛(めしもり)旅籠屋があり、飯盛女(めしもりおんな)(飯盛奉公人(ほうこうにん))を抱えている旅籠屋のことである。茶屋とは、旅行者に昼食や茶湯・菓子・団子・酒肴等を提供する休憩所である。茶屋は宿場内、宿場と宿場の間、渡船場(とせんば)、峠などに設けられていた。

 宿場の業務を統括する宿役人を検断(けんだん)・年寄(としより)と呼び、その下に本陣役(本陣)・問屋がおり宿場の業務を行っている。

 1604(慶長9)年8月、徳川幕府は諸国に街道の建設を命じ、道路の幅を五間(約9.2m)とし、一里(約3.9km)ごとに一里塚(りづか)を築き街道を整備した。さらに、1611(慶長16)年には宿場の業務である荷物の運輸・通信業務や旅行者の休宿泊業務、及びそれらの料金等を命じている。これにより、東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道の五街道が建設され、街道ごとに宿場が置かれ、奥州街道(現在の旧国道)にも宿場が成立した。

 宿場では交通運輸・通信業務、休宿泊業務を行うため、ある程度の家数や人口が必要であった。人馬の足りない宿場では、近隣の集落から人家を移動させて宿場づくりを図った。

 笹川宿は、室町時代の篠川御所のほぼ中央を奥州街道が通ったため、中世の町場であった西宿・三日市場・飴󠄀宿・広町(現在の西宿公園からケイヨーデイツー辺り)より人家を移して宿場町を建設した。日出山宿は西畑・台畑・北千保(現在のビッグ・パレット辺り)より人家を移して建設を計った。小原田宿は、戦国末期の城主伊東茂信の居城である西館(香久山神社・小原田小学校辺り)の南側を東西に人家が並んでいたが、奥州街道が西館の東側を南北に通ったため、街道に沿って人家を移し替え宿場を建設した。久保田村は2・3町(約218~327m)東にあった元久保田(現在の久保田字古町辺り)より、福原は阿武隈川辺りにあった西宿(現在の富久山クリーンセンターの南、福原字大鏑・字古戸辺り)より移した。日和田宿は、宮下(現在のジャスコの北側)にあった集落を、日和田八丁目の根岸へ移し、その後さらに根岸より移した。高倉宿は高倉城の東側(現在の高倉字東辺り)にあった人家を移して宿場を建設した。

 郡山宿は、戦国時代末期の1588(天正16)年には、すでに郡山城(現在の駅前陣屋)の周辺に家が建ち並び町を形成していた。伊達政宗(まさむね)や浅野長吉(長政)等と結ぶ山本伊勢守(いせのかみ)等の豪商が居住する町として発展していた。郡山宿は、さらに西ノ内や乙高(おつたか)より人家を移住させて宿場を建設した。

 郡山下町の本陣は代々今泉久右衛門家が勤め、検断を兼務している。郡山上町の本陣は山本伊勢・鮎瀬平左衛門・薄井徳右衛門・薄井小七郎等が勤め、それぞれ検断を兼務している。

 笹川宿は、1613(慶長18)年に問屋を設けて人馬継立を図った。日出山宿は、1613年6月26日に宿駅とし、肝煎(きもいり)(名主(なぬし))三郎左衛門に問屋を命じている。小原田宿の問屋は二人である。一人は水野家が代々勤めている。他は1624(寛永元)年に、仁右衛門(蛇石)に代わり縫殿助(ぬいどのすけ)(斎藤)を任命し、荷物の輸送等を正しく行うことなどを命じている。小原田宿は1613年に町割(まちわり)が施行され、その時の絵図面が残されている。郡山宿の成立は、笹川・日出山・小原田が1613年であることから同年と考えられる。

(柳田 和久)


一蘭斎国綱「孝子彌五郎伝 郡山駅」(安斉家所蔵)


十返舎一九撰・歌川美麿画『諸国道中金の草鞋 五』より「笹川宿」(安斉家所蔵)


十返舎一九撰・歌川美麿画『諸国道中金の草鞋 五』より日出山宿(安斉家所蔵)


(参考文献)

児玉幸多編『近世交通史料集』八

『体系日本史 叢書 交通史』

『笹川村地誌』

『松藩挿古』

『福島県史料集成』第二編