中通りから湖南地域(現郡山市湖南町)に行くには、奥羽山系の険しい山々を越える峠道となり、峠は北から御霊櫃(ごれいびつ)・三森(さんもり)・諏訪(すわ9・鶏(にわとり)・勢至堂(せいしどう)・馬入(ばにゅう)の各峠が知られている。なかでも勢至堂峠は、1590(天正18)年、豊臣秀吉が小田原の北條氏を滅ぼしたあと、会津入りをした際に通った峠として有名である。秀吉は長沼から勢至堂峠を越え、三代(みよ)・福良・赤津原の各村から背炙(せあぶり)峠を経て会津に入っている。しかし、加藤氏時代の1634(寛永11)年に険しい背炙峠を避けて北方に新道を開き沓掛(くつかけ)・滝沢(たきさわ)峠を越えて会津入をする道を完成させる。この道が、会津では白河街道又は東通(ひがしどお)りと呼ばれる街道で、会津藩にとって南山通り(通称日光街道)と共に藩主の参勤道、また年貢米を江戸へ送る廻米道にも利用された。また越後の新発田(しばた)藩や村上(むらかみ)藩の参勤道、さらに佐渡金山で産出した金を江戸へ運ぶ道筋で佐渡奉行等幕府役人も往来し、江戸より会津を経て越後へ向かう街道としても賑わった。
街道沿いの三代・福良・赤津・原・赤井の5ヵ宿には人馬継ぎ立てを行う問屋や旅行者の休息と宿泊の施設である茶店(ちゃみせ)や旅籠屋(はたごや)が軒を並べ、福良と三代には旅宿のうち大名・幕府役人などが休泊する本陣(ほんじん)が置かれた。また、諏訪峠や三森峠の麓(ふもと)に位置した中地(なかじ)も舟津浜(ふなつはま)や三代宿へ物資の中継の宿駅として賑わった。特に三代宿は勢至堂峠の麓にあり、白河からの峠越えで一泊する人、若松から峠を前に一泊する旅人や中地から諏訪峠へ向かう分岐点となっており、交通の要所と栄え、最盛期には三十数軒の旅籠・馬宿(うまやど)の他に荷物運送の馬方(うまかた)、荷背負い人夫稼業の者も多く、会津でも有数の宿駅として繁栄した。