1667(寛文7)年、会津藩では若松城下「札(ふだ)の辻(つじ)」を基点として、領内の主要道に一里塚(いちりづか)(壇(だん))を築いている。湖南地域では、三代の宿から西へ、山王坂(さんのうざか)の登り口(湖南小中学校の向い)に三代の一里塚(市文化財指定)がある。若松城下の基点より8番目の塚で保存が良く、往時の一里塚の様子を伝えている。この他、福良の小板坂(こいたざか)(7番目)と勢至堂峠の北麓の唐沢(からさわ)(9番目)にも築かれていたが、福良の跡地には標識があり、唐沢は開田等により痕跡はない。
また、会津藩では主要道の藩境出入口に口留番所と称した番所を置いて、領境の警備や領内産物の流出を監視した。「口留番所の掟」として「漆・蝋・鉛・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の八品は留物(他領へ移出禁止品)として手形なくみだりに通してはならない。欠落人(かけおちにん)又は疑わしい者をよく改めて留めた者には褒美(ほうび)を与える。油断して欠落者を通せば情況によっては処罰する」とあった(「家世実紀」)。
湖南地域の口留番所は、三代宿と馬入新田村に置かれた。三代の口留番所は領外の勢至堂村にあったものを1688(元禄元)年に三代宿へ移設したもので、宿の西端に木戸門を設け往来を監察した。また唐沢には三代口留番所の出番所が置かれた(「家世実紀」)。馬入新田村は馬入峠を経て白河へ通じる街道筋にあり、口留番所は1667(寛文7)年に設置された。平成16年に馬入集落南端の街道入口で口留番所の木戸門跡礎石が発掘調査され、現在この地に馬入口留番所の碑が湖南町史談会により建立されている。