猪苗代湖岸の船着き場は、会津領では西岸に篠山(ささやま)(笹山)と戸ノ口、北岸に関脇(せきわけ)があり、二本松領では北に浜路(はまじ)・南に舟津(ふなつ)があった。そして、湖上運漕(うんそう)を取締る舟番所(ふなばんしょ)は湖南の浜坪(はまつぼ)村に置かれていた。
湖上舟運に関する経路として、中通りや浜通りからの荷物を多田野経由で御霊櫃峠を越えて浜路へ、また三森峠越えて中地村を経て舟津へ、さらに岩瀬地方からは諏訪峠又は鶏峠を越え中地村を経て舟津への経路があった。浜路・舟津からは舟運にて対岸の篠山に荷揚げされ若松城下へ運ばれたのである。しかし、会津藩は湖上運漕についての掟書に「入荷五品、出荷三品」の定めを示し、会津への入荷は、いさば(海産物)・竹・鉄・藍玉(あいだま)・塩の五品に限るとし、また会津よりの出荷は、穀物・酒樽・砥石(といし)の三品(後に瀬戸物・油・酒類・味噌が追加され七品となる)に限るとして、これ以外の舟運漕を禁止した。また、二本松領の舟津・浜路浜からの会津領内への運漕は認めるが、会津領内から荷物を積んだ舟の舟津・浜路への入港は制限した。湖上舟運を規制したのは、白河街道の宿駅問屋の保護のためであった。そして、浜坪村に置いた舟番所で、湖上運漕に関わる監察に当たらせていた。