4 宿駅の終焉

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 白河街道の宿駅は明治期に入ると宿場としての使命を終える。そして、1899(明治32)年の岩越線(がんえつせん)の開通は、峠道の険しい湖南地方を人と物の流れから取り残してくる。明治38年民俗学者柳田国男は、訪れた三代宿の風景を「此村は会津街道であったから、村中を用水が流れ路幅が広く、くぐり戸や腰高障子の家が多く、火の影が路へさして、只の田舎のようではなかった」(「定本柳田国男集」)と記している。峠の麓の宿駅として多くの旅籠屋が軒を並べ、藩内有数の宿駅として賑わった三代宿の雰囲気を「只の田舎のようではなかった」と表現している。昭和初期の道路改修の際に村中を流れていた用水の堀は埋められたが、かつての旅籠屋の屋号や地割りの様子に宿駅としてのたたずまいを今に残している。

(大河峯夫)

三代の集落風景


(参考文献)

『近世会津史の研究』(山口孝平編)

『歴史の道 白河街道』(福島県教育委員会)