江戸時代には大きな凶作が3度ほどあった。享保、天明、天保の大凶作である。そしてそれが原因で大きな飢饉となった。
享保年間(1716~1735年)は20年のうち13回の災害があった。旱魃(かんばつ)や冷害もあったが洪水の被害が大きかった。1723(享保8)年には日出山村、笹原村が洪水によって堤防が切れたり、田に砂が入ったりしている。20町前後の田畑が被害を被(こうむ)っている。1729(享保14)年には北小泉村が洪水で年貢(ねんぐ)が完納できず、35人の飯米として大麦13石余の拝借を願い出ている。翌1730(享保15)年には8月28日・29日・30日の大風雨で大きな被害を受けた。二本松藩から幕府への報告では、田畑1万200戸(1万200石の間違いか)、大小落橋314ヵ所、山崩425ヵ所、堀崩366ヵ所などとしている。さらに翌年の1731(享保16)年にも5月15日より19日まで大雨となり、大きな被害が出ている。橋99ヵ所、山崩199ヵ所、堀崩221ヵ所などであった。
守山藩の木賊田(とくさだ)(徳定(とくさだ))村は1723(享保8)年と1731(享保16)年の2度にわたって大きな被害を受けた。1723年は8月7日から3日間降り続いた雨により洪水となり、濁流は水除土手を越えて村に流れ込んだ。避難した村人たちはなす術もなく、念仏を唱えて夜を明かしたという。この洪水の結果、食料不足となり、藩に救助を願い出ている。これに対して藩は救助金の貸付と堤防の復旧工事を行う対策を取っている。1731年の洪水の被害は浸水家屋35軒、冠水田畑24町3反、流出稲300駄と藩に報告している。このように木賊田村では2度にわたって洪水による大被害を受けた。村では水害から村を守るために、川上に村を移すことを藩に願い出て許されている。現在の徳定である。
天明の飢饉は、1783(天明3)年から1787(天明7)年の5年間にわたる大飢饉である。気象変動によって農作物に大きな影響があり、大凶作となった。特に1783年は冷夏で、稲の開花期に雨が降り続き、年寄りなどは綿入れや単衣物を着用しなければならないほどだった。この凶作は近世を通じて最大の凶作であり、最大の飢饉であった。
二本松藩の総村高は10万700石であるが、損害は実に9万9,000石余といわれているので、その被害の大きさが分かる。阿武隈川沿いの二本松領平地部、守山領、越後高田領は少々の収穫、阿武隈山地や奥羽山脈の村々の大部分は収穫皆無の状況であった。多田野や湖南の「山ノ内五ヵ村」には多くの飢餓人が出たので、腰に出身村名や同行者名、自分の名前を書いた札を下げて、領内を乞食をして歩くことを認めた。
二本松藩では酒造を禁じたり、家臣の米の消費を減じたりした。また、阿武隈川の渡し場や領境の街道筋に穀止(こくどめ)番所を置き、穀物の領外への持ち出しを防いだ。郡山宿では富商等に救援金の献納や米の安売り、粥(かゆ)の炊き出しなどを行わせ、飢餓人の救済を行った。
幕領であった栃山神には、この大凶作を適切な処置で村の窮状を救った代官、蔭山外記(かげやまげき)の徳を称える救民碑がある。
このような救民対策は各藩で行われているが、万全とは言えず、かなりの犠牲者を出している。このときの犠牲者を弔う供養塔が、各地に建てられている。この凶作以後、幕府の奨励等もあり、各藩では村ごとに郷倉(ごうぐら)を建てさせ、囲い籾を行わせて凶作に備えた。
天保の凶作は1833(天保4)年から1838(天保9)年まで6年間続いた。1833年は冷害、1834(天保5)年も冷害、1835(天保6)年は旱魃、1836(天保7)年は長雨、1837(天保8)年は旱魃、1838(天保9)年は長雨と続いた。
しかし、天明の大凶作の教訓が生かされ、穀止番所を設け穀物の他領への流出を防ぎ、酒造の禁止、代用食物の奨励、越後米の調達など藩の施策が実施されてくる。
また、困窮者や被害の大きかった村には、富商や富農に命じて、助け米や粥を施させ、御用金を割り当てて、それを賄った。米穀商の中には値上げや、品質・量目のごまかしをするものがいたので、「穀物屋修法」を公布して、藩命による穀市場や穀問屋を設けるなど、取締も行われた。
しかし、天保以前から疲弊(ひへい)していた村々は天保の凶作によって多くの困窮者を出した。
郡山宿では1833(天保4)年に総額740両の困窮者救助資金の献金があった。翌年には宿内の者のたちから411石余の救助米の献納があった。この年には疫病も流行し、これらの病人に対しても、一人一日2合をこの献納米から支出している。
参考文献
『郡山の歴史』・『郡山市史』