南奥州は、寛延一揆が起きる3年前から不作続きで、1749(寛延2)年は特に過酷であった。そのような中、1716~1735年(享保年間)から天領(てんりょう)や各藩では、年貢増徴政策を行っていた。1749年12月10日に桑折(こおり)天領で一揆が起ると、またたく間に各地に飛び火し、三春藩領、二本松藩領、会津藩領、守山藩領、高田藩分領、塙天領でも一揆が起こされた。しかし、一揆勢は要求が認められると帰村し、他の一揆と行動をともにすることはしなかった。
(1) 二本松藩の一揆
二本松藩領では、12月14日に安達郡西新殿村の農民が西泉寺に集まったのを契機に起こった。一揆は3日後の17日の午上刻(11時)に西新殿村の農民が田沢村・茂原村の農民を駆り出し、さらに夏目木村へ押し寄せて、同村の農民を一揆に駆り出し、それから針道組村々の農民を誘い、続いて小浜組村々、糠沢組村々の農民を誘い出し小浜町へ結集した。
一揆勢は、年貢を納めることを免じる。郡代(ぐんだい)・郡奉行(こおりぶぎょう)は凶作を加味しないで年貢量を決めたので不当である。諸運上(しょうんじょう)を納めるのを免じる。郡代・郡奉行を交代する。役人の岩井田舎人(とねり)(昨非(さくひ))を百姓に引き渡す、等を要求した。藩では、半免(はんめん)を認める。御用米金は来る6月まで延引する。未進残米は来る6月に上納するの三ヵ条を認めた。一揆勢は要求が認められ帰村した。
安積郡では、大槻組村々の農民3,000余人が郡山へ押し寄せ、如宝寺や観音堂に集まり、それより郡山組・片平組の農民を駆り出し、1万8,000余人が城下をめざして進み出した。一揆勢は日和田・高倉を通り吹上・三本松に集まった。藩役人が東安達郡に示した回答書を読み上げたので安積郡の農民も帰村した。
幕府は一揆を禁止しており重罪であった。二本松藩は翌年2月から頭取(指導者)の探索を始め、第1表の者達を捕えて農民を煽動(せんどう)したことにより処罰を言い渡した。
村名 | 名前 | 身分 | 処分 | 備考 |
---|---|---|---|---|
田沢村 | 万次郎(宗右衛門) | 百姓 | 獄門 | 頭取 |
田沢村 | 辰之助 | 百姓 | 領分払い | |
田沢村 | 小四郎 | 百姓 | 領分払い | |
田沢村 | 定八 | 百姓 | 田畑3分1取上げ、領分払い | |
田沢村 | 喜六 | 百姓 | 田畑・家屋敷取上げ、領分払い | |
田沢村 | 三右衛門 | 百姓 | 田宅取上げ、白岩村へ村替え | |
田沢村 | 十蔵 | 百姓 | 田宅取上げ、玉ノ井村へ村替え | |
茂原村 | 勘治 | 百姓 | 田畑・家屋敷取上げ、領分払い | |
茂原村 | 卯兵衛 | 百姓 | 田宅取上げ、八丁目村へ村替え | 頭取 |
東新殿村 | 寿右衛門 | 長百姓 | 死罪 | |
東新殿村 | 賀兵衛(加兵衛) | 長百姓 | 田畑・家屋敷取上げ、領分払い | |
東新殿村 | 藤左衛門 | 長百姓 | 領分払い | |
上太田村 | 善右衛門 | 百姓 | 獄門 | |
西新殿村 | 伝右衛門 | 長百姓 | 田畑・家屋敷・家財取上げ、領分払い | |
西新殿村 | 宗左衛門 | 百姓 | 田宅取上げ、片平村へ村替え | 頭取 |
南戸沢村 | 理右衛門 | 長百姓 | 田畑・家屋敷・家財取上げ、領分払い | 頭取 |
杉沢村 | 多三郎 | 百姓 | 過料人足30人 | 頭取 |
杉沢村 | 吉兵衛 | 百姓 | 過料人足20人 | |
大槻村 | 十郎兵衛 | 百姓 | 舟津村鬼沼へ村替え | 頭取 |
大槻村 | 林右衛門 | 百姓 | 田宅取上げ、稲沢村へ村替え | |
大槻村 | 善蔵 | 百姓 | 田宅取上げ、駒屋村へ村替え | |
田沢村 | 惣百姓 | 過料銭44貫文 | ||
茂原村 | 惣百姓 | 過料銭17貫文 | ||
東新殿村 | 惣百姓 | 過料銭29貫文 | ||
西新殿村 | 惣百姓 | 過料銭38貫文 | ||
南戸沢村 | 惣百姓 | 過料銭32貫文 | ||
上太田村 | 惣百姓 | 過料銭48貫文 | ||
田沢村・茂原村・東新殿村・西新殿村・南戸沢村・上太田村 | 名主 | 過料銭1人2貫文 | ||
組頭 | 過料銭1人1貫文 | |||
村目付 | 過料銭1人1貫文 | |||
百石共 | 過料銭1人銭500文 |
(『二本松市史』6)
(2) 守山藩の一揆
守山藩では1749年12月23日に一揆が起きている。一揆は舞木村・根木屋村など下郷(しもごう)の農民が、木村村・三城目村の農民を誘い出し、それから次々に領内村々の農民を駆り出し、25日の暮六ツ時(午後6時)頃に守山の陣屋前(じんやまえ)に結集し、要求書を陣屋へ投げ入れた。その間、取次(とりつぎ)、目明(めあかし)、大善寺村・徳定村の庄屋(しょうや)宅などを打壊(うちこわ)し、25日の夜四ツ半(午後11時)過ぎに帰村した。取次とは、農民の要求等を陣屋役人へ伝える役である。目明は、犯罪者等を捜索する者である。
守山藩では、ただちに頭取の探索に乗り出し、1750年6月18日に第2表の頭取が捕縛された。頭取達は取調に白状したとして7月23日に処罰された。
村名 | 村役名 | 名前 | 備考 |
---|---|---|---|
根木屋村 | 小衛門(伊左衞門) | 縄下・町宿預け・獄門 | |
同 | 介三郎 | 縄下・町宿預け・追放 | |
同 | 組頭 | 市郎左衞門 | 縄手錠・町宿預け出牢 |
舞木村 | 久左衞門(茂藤太) | 縄下・町宿預け | |
白岩村 | 治衛門 | 縄下・町宿預け | |
同 | 組頭 | 武衛門 | 本手錠・町宿預け出牢 |
山田村 | 彦八 | 縄下・町宿預け | |
同 | 組頭 | 弥六 | 本手錠・町宿預け |
御代田村 | 熊衛門 | 縄下・町宿預け | |
同 | 甚衛門 | 縄下・町宿預け | |
根木屋村 | 市左衞門 | 縄下・村預け・打捨 | |
同 | 団平 | 縄下・村預け | |
同 | 津加平(津衛門) | 縄下・村預け・追放 | |
舞木村 | 源内 | 縄下・村預け | |
同 | 佐源太 | 縄下・村預け | |
白岩村 | 七郎衛門 | 縄下・村預け・打捨 | |
同 | 五左衞門 | 縄下・村預け | |
同 | 市郎衛門 | 縄下・村預け | |
山田村 | 甚作 | 縄下・村預け | |
御代田村 | 勘左衞門 | 縄下・村預け | |
同 | 甚之丞 | 縄下・村預け | |
徳定村 | 藤蔵 | 縄下・村預け | |
同 | 浅衛門(三之介) | 縄下・村預け | |
同 | 甚八 | 縄下・村預け | |
下行合村 | 半七 | 縄下・村預け | |
芹沢村 | 八助 | 縄下・村預け | |
根木屋村 | 善兵衛 | 縄下・村預け・獄門 | |
御代田村 | 治衛門 | 縄下・村預け・追放 | |
同 | 幸内 | 縄下・村預け・追放 |
(寛延3年「守山藩御用留帳」(郡山市歴史資料館所蔵))
(3) 会津藩の一揆
会津藩では1749年12月22日に起きている。会津藩領の全村を巻き込む一揆となった。一揆の要求は、年貢半免(ねんぐはんめん)・定免制(じょうめんせい)の採用、夫食米(ぶじきまい)・種子米の拝借等の7項目である。定免とは、年貢量を決めるのに、5年間・7年間の豊凶を加味しながら平均を出して年貢を決定する方法のことである。夫食米とは食料米で、種子米とは田植えに用する苗の種米である。
一揆勢は若松城下町へ結集し、25日には城下へなだれ込もうとしたが発砲され城下の外に散った。26日に再び城下の入口に集まった時、郡奉行有賀孫太夫(まごだゆう)が要求を認めたので農民達は村々へ引き上げた。
25・26日には、原組・福良組も一揆に加わった。25日に原組の村々が滝沢坂に集った。福良組では25日の夜に集まり、26日に滝沢坂に到着した。郡奉行(こおりぶぎょう)片桐八左衞門が要求を認めたので、原組・福良組の農民達は帰村した。